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Vol.177 夏休みの時期には、普段ゆっくり考えないことを考えてみるのもいいんじゃないでしょうか。

  • 2015年8月13日

 みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。

 今は、ほとんどの人が夏休みまっただ中という感じじゃないかと思いますが、いかがお過ごしでしょうか? 長いツアーが終わってもひっそりすることがないゴスペラーズは、野外フェスでエネルギッシュに歌い踊ったり、一転してオトナな雰囲気のライブハウスをツアーしたり、この夏も大忙しです。でも、たいていの人はのんびり、ゆっくりしていると思うので、今回は社会についてのイメージというようなことを、ぼんやり考えてみたいと思います。

 ちょっといきなりな感じの話かもしれませんが、僕はいまの世の中というのは“自分は何者でもないんだ”と思わせるような風潮があると思ってるんです。何かすると、「普通だよね」と言われてしまうっていう。でも、多くの場合、自分が思ってるよりも、その人の存在は社会に影響を与えているんですよね。それに、その人が“普通”だとして、その“普通”がどれほど社会を支えているかということはもっと意識されていいと思うんです。僕が、社会貢献やボランティアの取り組みを資金的に支援する仕組みを、一口500円とか1000円くらいから考えているのも、そういう意識とつながっているかもしれません。ある人が月々払うそのお金が、彼の好きな活動をしている人の助けになる、と。そういう成り立ちの取り組みがたくさんあると、結果としてそれが社会基盤になってみんながみんなを支えているという感覚が広がるんじゃないかなという気がします。夢物語かもしれないけど、でもそれほど非現実的な話でもないと思います。それに、そういう成り立ちが広がっていくと、お金を払う人間のほうが、それを受け取る人間よりも偉い、というような意識も変わってくるんじゃないでしょうか。何かしたいんだけど、自分ではできない。だったら、自分の代わりにやってくれる人をみつけて、その人がやれるように、お金なのか品物なのかわからないけど、自分にできる範囲のものをその人に託す。その気持ちは、お金を出す自分が相手より偉いというのではなくて、「よろしくお願いします」という感じだと思うんです。そもそも、この社会は分業で成り立っているわけだから。だから、いろんな取り組みに自分の思いを託していくということが広がっていくと、社会全体の意識が「よろしくお願いします」的な意識の流れになっていくと思うんですよね。

 その上で、月々いくらか支払っているその人が“何か違うな”と思ったら、その時点でやめればいいというのも、特別な使命感とかそういうこととは無縁の、“普通”らしさだと思うんですよ。

 それから、今の世の中には言わば“普通”圧力みたいなものがあるのと同時に、平等ということに対してすごく神経質だと思いませんか。僕に言わせれば、ほとんどその意味をはき違えているんじゃないかと思えるくらい「平等じゃない」と言われることに敏感な人が少なからずいる気がします。そういう感覚が、結果として、この社会の重厚長大なインフラを支えているように僕には思えます。「この地域の人々が同じサービスを受けるためには、同じプラントからできたものでなければいけない」「みんなが使う水は、同じダムから出てきた水でなければいけない」そういう感覚が有用性を発揮していた時代や場面もあったでしょう。でも、最近ではデメリットもかなり大きくなっていると僕は思います。

それぞれ 人それぞれ、物事の一つひとつ、また地域ごとに、いろいろな違いがあるのは、それこそ普通のことです。その違いを、ひとつの特色として受け入れるには、そのための能力が必要だし、ある種の誇り高さも必要でしょう。現代の悪しき平等主義は、僕らが本来持っているはずのそうした能力や誇り高さを損なっていると思います。

 「社会は…」という話を始めると、それは縁遠いこと、自分ではどうしようもないことのように思いがちですが、じつはすごく個人的な、一人ひとりが周りの人に対して持っている意識を積み上げたものなんだろうと思うんです。だから、一人ひとりが自分の意識を変えていくと、その人の周りの居心地も変わっていき、それは社会全体の心地良さにもつながっていくんじゃないか。僕はそう思っています。

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