みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。
前回は、自分のなかの「和」について考えてみたわけですが、自分の考え方や好みといったものが、どれくらい自分の根っこの部分とつながっているのか、あるいはどれくらい世の中の流れや流行のようなものに影響されているのか、ということを時おり点検してみるのも悪くないですよね。世の中の流れや流行に影響されるのは良くない!なんてことを言うつもりはまったくなくて、大事なのはそういうものとの関わり方、距離のとり方なんだろうと思います。僕らゴスペラーズのように、広く一般的な人に向けて自分の表現を差し出すことをやっている人間について言えば、流行や人々の気持ちの流れを追いかけて捕まえることにより波に乗ろうとする人と、その波を待ち続けて「オレはこれを表現するんだ」という人と、そのどちらかしか残らないと僕は思うんです。結果、波に乗った、新たな波を創りだした、という風に外からは見える。で、ゴスペラーズはどちらかと言えば、ひとつの場所で待ち続けることのほうを目指しているタイプでしょうね。「このスタイルでどういうことをやれるのか?」というテーマをずっと追求し続けているグループだと思います。
そのゴスペラーズが自分たちの活動について話す場合に、「日本人が、日本で、日本語でパフォーマンスすることの意味というものがある」という話をよくするんですが、僕個人としてはこの時代にこの国に生まれてこういう現状にあるときに、これからどうすべきかということを考えれば、やっぱりいちばんに思うのは“もっと日本を知らなきゃいけないなあ”ということです。それは、政治的なことから文化的なことまでいろんなことを知るのがベストだとは思いますが、でもやっぱり全部は無理じゃないですか。だから、まずは縁のあるところから、というふうに思うわけですが、そこで最近よく感じることのひとつは、今というのは自覚のないままにいろんなことをどんどんやってしまっている時代、そういうことができてしまう時代だなあということです。例えば音楽を聴くという行為についても、昔はまずはCDを買う場面で“これを聞こう!”という意識がはっきりはたらいていたわけですけど、いまはそういう強い意識がなくても無料でYouTubeで聴けてしまいますよね。しかも、話がちょっと厄介なのは、そういうふうに特に大したコストも払わずに音楽が楽しめているようでありながら、でもよくよく考えてみると、じつはYou Tubeを見るためのネット環境を確保するためにネット事業者にはお金を払ってるんですよ。つまり、今という時代は、○○をするために△△をする、という相関性を感じにくくなっている世の中であるわけです。そのことに一旦気づいてしまうと、なんだかすごく居心地が悪い感じがすると思うんです。少なくとも僕は感じているわけですが、その居心地の悪さというのは、詰まるところ、人間関係に帰着していくと思うし、それを知っているか知らないかでは大きく違うと思うんです。だって、突然ハシゴをはずされたときに、対処のしようがないから。「突然ハシゴをはずされるって具体的にはどういうことが起こるの?」と聞かれたら、簡単には説明しにくいですが、まさにその説明しづらさこそが今の世の中のシステムのわかりにくさを表していると思います。だから、41歳をむかえたこの2015年という1年は、そういうわかりにくい、見えにくいシステムを、少しでもわかりやすく、見えやすくしている人たちと接していくことが面白いんじゃないかなと思うし、それは単なる一般市民のあり方としてももっと広がっていけばいいんじゃないかなと思うんです。幸か不幸か、今の日本は行け行けドンドンの時代じゃないから、自分たちのなけなしのお金がどういうふうに使われるのか、どういうふうに流通しているのか、ということにも目が向けやすいと思うし。だから、そういうことを知っていくきっかけというか、チャンネルのひとつとしてこの連載が機能していけるようにしたいなと思っています。
というわけで、新年度1回目の今回に、今年1年の方向性をあらためて宣言してみました。ひき続き、どうぞよろしくお願いします。