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Vol.146 一見、音楽の専門的な話に思えるようなこともじつは…。

  • 2014年5月15日

 みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。

 前回は、僕が母校でやっている“うた”という講座について、またそれに臨む僕のスタンスについて紹介したわけですが、その講座で話すこと、あるいは考えることが音楽というフィールドに固有の、あるいはそこに限定されたテーマだとは思っていません。だからこそ、エコがテーマであるはずの(笑)、この連載でも紹介しているわけです。授業で、「ここで考えていることは、いろんなことのメタファーとして応用できるはずです」といったことは明言していないつもりですが、それでも勘のいい学生は、あるいはあの講座を面白がってくれた学生はそのことに気づいていたはずです。それに、例えば「ウチの部長と課長はうまくハモレてないですよね」なんていう言い方を普通に使っているんじゃないでしょうか。結局のところ、と結論めいた言い方をしてしまうのは良くないかもしれませんが、音楽について考えることは人と人とのコミュニケーションについて考えることに深く関わっているので、日々の暮らしの様々なことに自然とつながってくるんだろうと思います。

ハモること ところで、コミュニケーションの観点から言って、人と人が「うまくハモれてる」って、どういうことでしょう? つい先日、AWSで女川に出かけた際にある方とそんな話になったので、ここでも紹介したいのですが、一般的によく混同されていることのひとつに、「空気を読む」ということと「ハモる」ということがあります。

 「僕が言ってる、これでいいよな?」「いいよ」「いいよ」という状況は、言わばひとつの“音”にみんなが集まっているという状況なので、それは音楽的な表現を使えば、“ユニゾン”になってしまっています。それは、ハモってはいません。

 ユニゾンが悪いというわけではないんですよ。ユニゾンもハーモニーのひとつであって、例えば「素晴らしいユニゾン」というのは褒め言葉のひとつではあるんですが、それは和音ではない。共通の目標として、それぞれの個性を生かして和音を鳴らしたいという場合には、ひとつに集まるのではなく、それぞれの持ち場を守る必要があるんです。それ以上近づいてはいけないという、目標にたどり着くのに適した距離というものを保たなければいけないんですよ。しかも、それは「正しい」ではなく「適した」なんです。それぞれが「自分がこうしたい」というものを表明し、そのみんなで作る和音というものを考えたときに、“それだったら、僕はちょっとこっちへ移動しよう”というふうに考える。「僕の位置が正しい」ではなくてね。個々の意見に対してどうこうということではなく、“それを組み合わせてこういうものを作るんだったら、こうしたほうがいいんじゃないか”というふうな思考を進めていくことがハモるということだというのが僕の考えです。例えば、ドの音を出している人、ミの音を出している人、ソの音を出している人は、それぞれ物理的に違うことをやっていて、それは言わば“みんな意見が違う”という状況です。でも、その3人が適した距離を保持した瞬間に、その3人の誰も出していないCメジャーというコードが響く、つまりA+B+CがDになるという状況を求めるということなんです。それは逆に言えば、Dを得るためにはAもBもCもいないといけないし、その3人が他の人に依存したりしてもいけないということでもあるわけです。依存するのではなく、認めて適した距離を探る、ということです。

 個人的には、ハモるということの意味がわかれば、自分とは違う意見の人のことを許せるようになるし、むしろそういう人と積極的に話をするようになると思っています。Vol.144で「若い起業家たちがみんな教育に行き着いている」というマイファームの西辻さんの話を紹介しましたが、その話を聞いて僕が思ったのは“単純に自分の主張を説いて回るだけでは求めている社会の有り様は得られないと感じているからかもしれない”ということです。“これが正しいんだから”という論法で話を進めると、議論はしばしば平行線を辿ってしまいます。だから、僕がハモることの意味を伝えるなかで人と人のつながりが深まっていくことを期待しているように、みんなもそれぞれに教育という形でお互いの考えを交換し合うような方向に向かっているのではないか、と考えたりしています。

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