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Vol.130 ゴスペラーズはどうして19年目にして初めてカバー・アルバムを作ったのか。 

  • 2013年9月12日

 みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。

 前回の後半で、「ゴスペラーズが初めて名曲のリユース/リサイクルに挑んだ!」と言えなくもないけれど、一般にはカバー・アルバムと呼ぶのが相応しい(笑)新作をリリースするという話を始めたわけですが、僕らがこれまでカバー・アルバムを作らなかったのは僕らなりのオリジナリティーを提示したいという意志の表明の結果だったと書きました。

 でも、こんなふうにも思うんです。例えば、陶芸家は土をこねて焼いて器を作るわけですけど、陶芸家ごとにその人独自の表現というものに一生懸命取り組んでいると思うんです。でも、陶芸というものにそれほど興味がない人が見た場合には、陶芸家が驚喜している白の器でも、「そんなものはいくらでもあるでしょ」と思うだけかもしれない。同様に、音楽にあまり興味のない人にとっては、ゴスペラーズがオリジナルを歌っていようがカバーを歌っていようがあまり関係ない、ということもあるだろう、と。それに、僕らは人間の生身の体という楽器を使って音楽をどう表現するかという設計をするわけですが、そのやり方は基本的には平均律にしたがっているわけだし、西洋音階でやっているわけで、新しいものを作るとは言っても、そうした何らかのルールに則っているわけです。だから、僕らがやってきたことはパッチワークみたいなものなんだ、とも言えると思うんです。素材というものはどこかから借りてきて、それを継ぎ接ぎして、自分らしい模様に仕上げてみせているということですから。そういうふうに客観的に自分たちのやってきたことを見た上で、今回カバー・アルバムを作ってみようと考えたということは、ゴスペラーズはやっと自分たちなりのやり方というか、ゴスペラーズというフィルターに自信ができてきたということなんだろうと思うんですよね。

 ただ、そうは言いながらも今回取り上げた13曲のラインナップを見てもらえばわかる通り、そこにはまだこだわりというか、ある種の不安があるんです。自分たちのフィルターに完璧な自信があるなら、どんな曲でもいいんだと思うんですけど、でも僕らにそれができないのは、やっぱりソングライターとしてのアインデンティティがあって、オリジナルを作るときにやってきた理論武装やスタイルをここでも進めるしかないんですよね。言い換えれば、そこに僕らの闘いがあるんだと思うし、このバラバラ具合こそが相変わらずのゴスペラーズなんだというふうにも言えると思います。

 今回の制作での特徴的なことのひとつに、執拗なまでにミーティングを重ねたということがあります。それは、メンバー全員がこのアルバムのビジョンをちゃんと見えているということがすごく大事だと考えていたからです。ゴスペラーズとしてカバーで世に問うということにみんなでワクワクできるかどうかっていう。オリジナル曲の場合は自分たちが削り出したものを生で届けるというストーリーが元々あるわけですけど、カバーの場合はそういうものがないですから、それに匹敵する自分たちなりのストーリーを持てるかどうかということが重要、というわけです。だからこそ、ミーティングを重ねて、それぞれの曲について、なぜこの曲はこのアルバムに入るのか、その背景についてすべてのメンバーが納得しているか、といったことをしっかり詰めていきました。

 僕は思うんですが、自分たちのスタイルがあるかどうかというのは、何かひとつの物事に対して自分たちなりの価値を感じられるかどうかということですよね。それは、音楽に限らず、暮らしのいろいろなディテールについても言えることだと思います。例えば、自分にちゃんとストーリーがあって、自分がいいものだと思っているものだけを集めて身にまとっている人のほうが、「なんとなく上から下までハイブランド」みたいな人よりも洗練されて見えることも多いですから。今回取り上げた曲のラインナップが仮にバラバラに見えたとしても、それは世の中の評判や流行に捕らわれずに僕たちが自分たちに必要な曲を一生懸命選んだということだと思います。やっぱり、僕らのなかには“僕らにしかできないことをやりたい!”という欲望が強くあって、だから『J-POP名曲集』みたいな、わかりやすいけれど誰にもできるようなまとめ方はしないということなんですよね(笑)。


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