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戦時下の「不要不急線」—— レールが外された後はどうなったのか?【東日本編】

  • 2021年5月19日
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不要不急線を歩く03 〜〜 東日本の不要不急線のその後 〜〜

 

「不要不急の外出を控えて」という言葉を聞くと、“やれやれ”と思う方が多い今日このごろ。太平洋戦争の最中の「不要不急線」といえば、強制的に路線が休止、または廃止され、線路が外された路線を指した。

 

今回は、戦時下に不要不急線に指定された東日本の路線に注目した。どのような路線が不要不急線となったのか、それぞれの路線は戦後どのようになったのか追ってみた。

 

【不要不急線①】戦争継続のため鉄道の線路が取り外された

まずは、不要不急線とはどのような仕組みだったのかを見ていこう。

↑1900年ごろに海外用に発行された絵葉書。当時の非力な機関車が想定外の貨車を牽いたシーン。合成された写真と思われる

 

太平洋戦争前の日本は、日華事変・日中戦争など大陸での戦火が広がりつつあった。対外的には、かなり背伸びした姿を見せていた様子が分かる。上は1900年ごろの海外用の絵葉書だ。貨物列車を紹介した戦前の絵葉書は珍しいが、途方もない数の貨車を引いている。当時の非力な蒸気機関車が牽引できるわけがなく(現在もここまでの車両数を牽くことはない)、合成写真だということがすぐに分かる。

 

要は対外的に日本の力を誇示するため、こうした絵葉書を使って国力を底上げして見せていた傾向が窺える。そうした国の姿勢は徐々に破綻を迎える。

 

そして、1941(昭和16)年の暮れに、アメリカ合衆国ほか連合国との全面戦争に突入する。鉄などの資源に乏しい日本は資源不足に陥り、まず国民から金属が含まれるありとあらゆる品物を供出させた。

 

鉄道路線には多くの資源が使われている。そこで重要度が低いとされた路線を休止、もしくは廃止、または複線を単線化して、線路を軍事用に転用、重要度が高い幹線用に転用するべく政府から命令が出された。命令の内容は「勅令(改正陸運統制令および金属類回収令)」であり、拒否はできなかった。廃止により運行スタッフの職が奪われようと、政府はそうした現実を見ようともしなかった。

 

そして、全国の国鉄(当時は鉄道省)と私鉄の路線が1943(昭和18)年から1945(昭和20)年にかけて休止もしくは廃止、単線化された。その数は90路線近くにのぼる。

 

【不要不急線②】東京都下や名古屋に不要不急線が多い

不要不急線として指定された路線を、昭和初期に発行された鉄道路線図に入れてみた。北海道ならびに東北地方の不要不急線は、意外に少なく見える。やはり、線路を回収して製鉄工場へ運ぶとなると、運び出すのに手間がかかる。

 

加えて北海道や東北地方には炭鉱や、鉱物資源が豊富だったことも見逃せない。一方で、沿線にそうした資源がない農村部を走る路線、例えば道内の札沼線(さっしょうせん)、興浜(こうひん)北線、興浜南線などは休止となっている。

↑北海道・東北地方の不要不急線。路線は密だったものの、意外に休線が少なかった。元図は東京日日新聞「全国鐵道地図」(昭和三年元旦附録)

 

一方の関東・甲信越・中部地方の路線となると、不要不急線に指定される路線が多かったことが地図を見ても分かる。もちろん、この地域の路線数が多かったことがあるものの、やはり運び出しやすいという理由もあったのだろう。特に東京都下と、中部地方では名古屋鉄道(名鉄)の路線が目立つ。

↑関東から中部に至るまでの不要不急線を抜き出してみた。東京と中部地方、特に名古屋鉄道の路線の休止区間が多かったことが分かる

 

不要不急線と指定された路線はその後どうなったのか? 戦後そのまま廃止となった路線がある一方で、営業再開、また単線が複線に戻された路線もあった。復活したものの、今はない路線もあり、明暗がはっきりと分かれている。とはいえ、沿線に住み、鉄道を利用してきた人にとっては、迷惑な話であることは確かだった。

 

【不要不急線③】取り外された線路は果たして役立ったのだろうか

↑日本軍には鉄道連隊という隊も存在した。占領した外地でいち早く鉄道を敷き、軍を進軍させるという役割を追っていた

 

不要不急線の指定は太平洋戦争の最中であり、どのような人たちがレールを取り外し、どのように運んだのか、記録を探すことができなかった。戦時下ということもあり、戦争に関わる事柄はすべて秘密だったせいもあるのだろう。果たして路線が休止となり、線路を運び出したところで、役立ったのだろうか。また鉄道会社への支払いはどうだったのか?

 

不要不急線の指定と同様に、戦時下に多くの民営鉄道(私鉄)が買収され国鉄(当時は鉄道省)の路線に組み込まれた。この時もほぼ強制的で、反対意見など言ったら、すぐに“非国民”となった。買収といっても戦時公債で支払われ、戦時中にはほぼ現金化できなかった。いわば“寄付”のような状況である。さらに戦後は超インフレとなり、戦時公債が戦後に償還される時には、ほぼ紙切れ同然でタダのような金額となっていた。

 

外された線路にしても、例えば、外地の占領地で鉄道敷設のために輸送船に積まれたものの、目的地へ着く前に敵の潜水艦によって沈められ、目的地に到着できなかったなどの逸話が残っている。

↑戦時下の出征風景を写した絵葉書。「東京○○駅出征 ○○大隊を見送の光景」と説明にある。軍がらみの事柄はすべてが秘密だった

 

要は、戦時下のごたごたした時期であって、不要不急線と指定されて線路が外されたものの、実際にどの程度役立ったのかは未知数である。もちろん、戦後に線路を外した路線の復旧などをする力は敗戦国に残っていなかった。結果を見れば、迷惑きわまりない話であり、とんだ無駄だったことが分かる。それがまた戦争が持つ宿命なのだろうが。

 

国の暴挙に付き合わされ、大変な思いをする、また不便な思いをするのは庶民ということなのかも知れない。

 

【その後の路線①】休止後にそのまま廃線となった路線

ここからは、東日本(中部地方以西はまたの機会に取り上げたい)の不要不急線のその後を追ってみたい。休止された後の路線の動向はいくつかの道筋に分かれる。最初は、休止後に廃線に追いやられた路線から。最も悲しい結末を迎えた路線である。

 

○そのまま廃線となった路線(前述の地図「×」)

■鉄道省(その後の国鉄)の路線

◇北海道

・富内線(とみうちせん):沼ノ端〜豊城(とよしろ)24.1km間、1943(昭和18)年11月1日休止

沼ノ端から現在の日高本線の北側に敷かれた路線。路線が設けられたのは1922(大正11)年で、北海道鉱業鉄道として開業した。日高本線の鵡川(むかわ)から合流する路線が豊城駅まで敷かれていたが、戦時下には沼ノ端〜豊城間が休止となり、そのまま廃線となった。戦後も、鵡川〜豊城〜日高町の区間は存続されたが、1986(昭和61)年に廃止となった。

 

◇東北地方

・橋場線(岩手県):雫石〜橋場7.7km、1944(昭和19)年10月1日休止

橋場線は現在の田沢湖線の雫石と橋場間を結んでいた。開通は1922(大正11)年で、橋場軽便線として開業した。戦後は田沢湖線が雫石と、田沢湖、角館などを結んだが、路線は橋場を通らず、そのまま雫石〜橋場間が廃線となった。

 

・白棚線(はくほうせん/福島県):白河〜磐城棚倉23.3km、1944(昭和19)年12月11日休止

現在の東北本線白河駅と水郡線の磐城棚倉駅を結んだ路線。1916(大正5)年に白棚鉄道として開業した。水郡線の全通開業は1934(昭和9)年のことで、白棚線は水郡線よりも先に路線が開通していた。戦時下に休止となり、その後に復活はしなかった。一方で、元線路はバス専用道路に転用され、現在もジェイアールバスが白河〜磐城棚倉を結んでいる。

 

◇関東地方

・五日市線:立川〜拝島駅間8.1km、1944(昭和19)年10月11日休止

元は五日市鉄道として開業した線区で、現・青梅線よりも南側を走っていた。戦時下の1944(昭和19)年4月1日に、青梅鉄道(現・青梅線)、南武鉄道(現・南武線)とともに国有化され、半年後には不要不急線に指定、休止となった。戦後も復活することなく、廃止となっている。

↑旧五日市鉄道が走っていた大神駅跡には、線路と台車などを飾るモニュメント広場が設けられている

 

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■民営鉄道(私鉄)の廃線路線

不要不急線として休止になった鉄道省(後の国鉄)の路線は、戦後に復活したものが多い。一方、民営鉄道の場合は、休止後そのまま廃線となった路線が目立った。やはり資金力に余裕のない私鉄は復旧までたどり着かなかったのであろう。そんなつらい運命をたどった路線を見ていこう。

 

◇北海道

・江別町江別川線:江別〜江別川堤防0.3km、1945年3月1日廃止

函館本線の江別駅から千歳川沿いの江別橋までの短い路線で、貨車を人間が押すといった“人車軌道”だったという話も伝わる。路線開業は1905(明治38)年。不要不急線として終戦の年に廃止となり、戦後も復活はなかった。

 

・定山渓(じょうざんけい)鉄道:白石〜東札幌間2.7km、1945年3月1日休止

函館本線の白石駅〜定山渓間が1918(大正7)年に開業した。戦時下に千歳線との接続駅である東札幌と白石間の路線が休止となり、そのまま廃止となった。残った東札幌〜定山渓間も1969(昭和44)年11月1日に廃止となっている。定山渓温泉の最寄りまで行く私鉄路線で、今も残っていたら便利だろうにと、少し残念に思う。

 

・大沼電鉄:大沼公園〜鹿部17.2km、1945(昭和20)年1月31日廃止

道南、大沼公園と鹿部を結んでいた軌道路線で、1929(昭和4)年に開業した。1945(昭和20)年に廃線となり、同年の6月1日に平行して敷設された函館本線(砂原支線)が開通、路線としての役割を終えた。戦後には函館本線の新銚子口と鹿部駅間のみ、1948(昭和23)年に営業再開されたが、わずか4年のみの営業で路線廃止となった。

 

◇関東地方

・成田鉄道軌道線(千葉県):成田山門前〜宗吾間5.3km、省線駅前〜本社前0.1km、1944(昭和19)年12月11日廃止

成田山新勝寺と宗吾霊堂を結ぶ路面電車路線として1911(明治44)年に全通、成宗電車(せいそうでんしゃ)として地元の人たちに親しまれた。成田市内にトンネル跡などが残り、線路跡は今も車道として使われる。

↑成田鉄道軌道線のトンネル。戦前に不要不急線となり休止→廃線となったが、トンネルは一般道として使われ路線バスが走る

 

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・成田鉄道多古線(千葉県):成田〜八日市場間30.2km、1944(昭和19)1月11日休止

1911(明治44)年から徐々に路線が延び1926(大正15)年に全線が開業した。開業当時は千葉県営鉄道で、鉄道の空白区間を埋める役割があった。1927(昭和2)年に成田鉄道となった後に、1944(昭和19)年に不要不急線として休止に、そのまま戦後に廃線となった。

 

・東京急行電鉄御陵線(東京都):北野〜多摩御陵前6.3km、1945(昭和20)年1月21日休止

現在の京王電鉄京王線の北野駅と多摩御陵前を結んだ路線で、1931(昭和6)年に開業した。開業した当時は京王電気軌道で、戦時下に小田急、京浜急行とともに東京急行電鉄(現・東急電鉄)の傘下に組み込まれた。そのため休止時には京王でなく、東京急行電鉄の路線名となる。御陵線は山田〜多摩御陵前間がそのまま廃止されたが、北野〜山田間の路線跡は、現在の京王高尾線に活かされている。

 

◇甲信越地方

・善光寺白馬電鉄:南長野〜裾花口(すそばなぐち)間7.4km、1944(昭和19)年1月11日休止

路線名にあるように、善光寺がある長野市と白馬を結ぼうとした電鉄線で、1936(昭和11)年に南長野から途中まで、戦時中の1942(昭和17)年に裾花口まで開通した。しかし、わずか2年後に休止させられ、そのまま廃止となった。筆者は一度、路線跡を歩いたことがあるが、険しさにたじろいでしまった。

 

今回は、取り上げなかったものの、東京都電車(都電)でも9線区が戦時中に廃止となっている。ほかにも鋼索鉄道(ケーブルカー)でも休止させられ、戦後にそのまま廃止となった路線もあった。

 

【その後の路線②】戦後に復活した路線も明暗が分かれた

ここでは休止となったのち、戦後に営業再開したものの、現在は廃止された路線をあげてみる。

 

○休止後に再開したものの今はない路線(前述の地図「▲」)

■鉄道省(その後の国鉄)の路線

◇北海道

・札沼線:石狩月形〜石狩追分間45.8km、1943(昭和18)年10月1日休止。石狩当別〜石狩月形間20.4km、1944(昭和19)年7月21日休止。石狩追分〜石狩沼田間19.3km、1944(昭和19)年7月21日休止

札沼線は段階的に休止区間が決められていった。戦後すぐの1946(昭和21)年に石狩当別〜浦臼駅間が営業再開。全線の営業再開は1956(昭和31)年と、だいぶ後のことになった。再開されたものの乗車率が低く徐々に区間廃止が進められていく。記憶に新しいところでは2020(令和2)年5月7日に、北海道医療大学〜新十津川間が正式に廃止された。不要不急線として休止された区間で今も残るのは、北海道医療大学〜石狩当別間の3.0kmのみとなっている。

 

・興浜北線:浜頓別〜北見枝幸30.4km、1944(昭和19)年11月1日休止。興浜南線:興部(おこっぺ)〜雄武(おうむ)間19.9km、1944(昭和19)年11月1日休止

オホーツク海を望む道北にあった両線。興浜線として結ばれる予定だったが、戦時下に休止、戦後まもなく営業再開したものの、1985(昭和60)年の7月1日に興浜北線が、同じ年の7月15日に興浜南線が相次いで廃止された。

 

◇東北地方

・川俣線(福島県):松川〜岩代川俣間12.2km、1943(昭和18)年9月1日休止

東北本線の松川から伊達郡川俣町まで走った路線で、1926(大正15)年に開業した。戦時中に休線となったものの、戦後に営業再開した。終点の川俣は織物の生産地であったものの、それ以外に輸送する産物に乏しく、1972(昭和47)年に廃止された。

 

◇関東地方

・中央本線下河原線(東京都):国分寺〜東京競馬場前5.6km、1944(昭和19)年10月1日休止

下河原線は中央本線の支線で、当初、国分寺と下河原を結ぶため東京砂利鉄道によって1910(明治43)年に開業した。その後に国有化され終点駅を東京競馬場前に変更。戦時下に休止、戦後に営業再開した。武蔵野線の開通に合わせて1973(昭和48)年に廃止となる。筆者は通学路の近くに線路があったため、競馬開催日以外の平日は、旧形国電が1両で走っていた姿を覚えている。

 

◇甲信越地方

・魚沼線(新潟県):来迎寺〜西小千谷13.1km、1944(昭和19)年10月16日休止

信越本線の来迎寺と西小千谷を結んだ路線で、1911(明治44)年に魚沼鉄道として開業した。その後に国有化され戦時下に休止したが、1954(昭和29)年に営業再開された。興味深いのは国有化された後も軽便鉄道の線路幅だったこと。線路幅の762mmが在来線の1067mmになったのは1954(昭和29)年のことだった。1984(昭和59)年に廃止となっている。

 

・弥彦線(新潟県):東三条〜越後長沢7.9km、1944(昭和19)年10月16日休止

弥彦線は現在も東三条〜弥彦間の営業が行われている。かつては信越本線を横切り東三条から越後長沢まで路線が延びていた。元は越後鉄道という会社が開業させた路線で、東三条〜越後長沢間は1927(昭和2)年に路線が延ばされている。延伸後すぐに国有化、戦時中に休線となり、戦後まもなく営業再開となったが、1985(昭和60)年に廃止となっている。

↑東三条駅からは南の越後長沢へ走る元弥彦線の線路が右にカーブしていた。同区間は1985(昭和60)年に廃止となった

 

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こうして見ると、営業再開されたものの、盲腸線が大半だったこともあり、昭和後年に大概が廃止されている。廃止に至った原因は、沿線人口の減少、産業構造の変化、貨物輸送が鉄道から自動車への変換などがあったものの、もともと乗車率の低い路線だったことも大きかったと言えるのだろう。

 

【その後の路線③】戦後に再開して今も残る路線は意外に少ない

不要不急線として休止になり、戦後に営業再開した路線で、今も残る路線は少ない。もともと閑散区の路線が選ばれたということもあるだろう。今も残る路線を見ておこう。

 

○休止後に復活して今も残る路線(前述の地図「△」)

■鉄道省(その後の国鉄)の路線

・久留里線(千葉県):久留里〜上総亀山9.6km、1944(昭和19)年12月16日休止

東日本において、元国鉄路線で不要不急線に指定され、今も残るJRの路線は久留里線のみだ。久留里線は1912(大正元)年に千葉県営鉄道として一部区間が開業、国有化後の1936(昭和11)年に上総亀山まで延ばされている。戦時下に路線の途中、久留里から先が休止となったが、戦後の1947(昭和22)年に営業再開となっている。今も久留里の先は閑散区間ではあるもののJR東日本の路線に組み込まれたこともあり、廃止という声は聞かれない。

 

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↑早春には沿線の菜の花が美しい久留里線。通学の足として今も役立てられている

 

■民営鉄道の路線

・東武鉄道越生線(埼玉県):坂戸町〜越生10.9km、1944(昭和19)年12月10日休止

東武東上線の坂戸とJR八高線との接続駅の越生間を結ぶ東武越生線。1934(昭和9)年に越生鉄道が現在の路線を全線開業させ、戦時下に東武鉄道により買収された後に営業休止となった。戦後の1945(昭和20)年11月30日にすぐに営業再開とあり、線路も外されていかなったように推測される。

 

・西武鉄道村山線(東京都):東村山〜狭山公園2.8km、1944(昭和19)年5月10日休止

同区間は現在の西武鉄道の西武園線で、1930(昭和5)年に旧西武鉄道により開業された。村山貯水池への観光用に開業された路線で、開業時は村山貯水池前という駅名だった。戦時中の休止時には狭山公園という駅名だが、近くに狭山公園前という駅があり非常に分かりにくかった。同エリアで、現在の西武鉄道の元になる武蔵野鉄道との激しいライバル争いがあったためである。

 

戦時下に路線休止となったが、戦後すぐに両社は合併し、1948(昭和23)年に営業再開された。再開後に村山貯水池とは別の場所に終点の西武園駅が設けられ、旧村山貯水池駅は廃駅となり現在に至る。

↑西武鉄道西武園線は、東村山〜西武園の1駅区間を走る短い路線。戦前は旧西武鉄道の路線で終点駅は狭山公園だった

 

・武蔵野鉄道山口線(埼玉県):西所沢〜村山4.8km、1944(昭和19)年2月28日休止

武蔵野鉄道とは現在の西武鉄道の前身にあたる鉄道会社で、1929(昭和4)年に山口線が開業した。終点の駅名は戦前だけでも村山公園→村山貯水池際→村山と三転している。近くを走っている旧西武鉄道とのせめぎ合いがあったためである。山口線は戦時下に休止、1951(昭和26)年に営業再開、その時に路線名を狭山線に、終点駅は狭山湖となった。その後の1979(昭和54)年に駅名が狭山湖から西武球場前に変更されている。

 

不要不急線として休止されたものの、営業再開され、今も残る路線の多くは民営鉄道(私鉄)の路線が多い。それにしても西武鉄道の多摩湖線を含めた3本の路線が村山貯水池(多摩湖)周辺に集まる様子は、ライバル争いという背景が過去にありつつも、興味深い。

 

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【その後の路線④】複線→単線になってそのままとなった路線

ここからは不要不急線として複線の路線が単線化された例を見ていこう。単線化され、戦後もそのままだった東日本の路線は、鉄道省(国鉄)の1線のみだ。

 

・御殿場線(神奈川県・静岡県):国府津〜沼津60.2km、1944(昭和19)年7月11日単線化

御殿場線の路線は大半が静岡県内を走るが、神奈川県の国府津が起点駅ということもあり、関東地方の路線ということで触れておきたい。

 

御殿場線は1889(明治22)年の開業と古い。当時の東海道本線の一部区間として開業された。1934(昭和9)年に熱海〜函南(かんなみ)間を結ぶ丹那トンネルが難工事の末に開業したことにより、現在の御殿場線が東海道本線から外れて支線となった。

 

全線が複線化されていたが、列車の本数も減り、無駄とされたのだろう。戦時中に単線化され、その後に複線に戻されることはなかった。

↑戦前の御殿場線の絵葉書。非電化ながら複線で、蒸気機関車が牽引する客車数も長く、利用者も多かったことがうかがえる

 

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【その後の路線⑤】単線化後に戦後に再び複線となった路線

御殿場線が戦時中に単線化された一方で、戦後に複線に戻された路線が東日本に2線ある。どちらも私鉄の路線だった。

 

・東武鉄道日光線(栃木県):合戦場(かっせんば)〜東武日光44.5km、1944(昭和19)年6月21日に単線化

東武日光線の新栃木の北にある合戦場と東武日光の間が戦時中に単線化された。合戦場の手前、新栃木は東武宇都宮線が分岐している。新栃木より北は観光目的が強い路線と判断されたのであろう。複線に戻す工事は、徐々に進められた。距離が長かったせいもあるのか、1973(昭和48)年、約30年後にようやく単線化した区間の複線化が完了している。

↑戦時中に単線となった東武日光線の複線化は時間がかかった。写真は楡木(にれぎ)駅付近で、複線に戻されたのは1973(昭和48)年のこと

 

・東京急行電鉄江ノ島線(神奈川県):藤沢〜片瀬江ノ島間4.5km、1943(昭和18)年11月16日単線化

江ノ島線といえば、現在は小田急電鉄の路線だが、戦時中は東京急行電鉄の傘下となっていた。藤沢〜片瀬江ノ島間は観光目的の利用者が多いことから単線化された。戦後は1948(昭和23)年に小田急電鉄となり、同年に藤沢〜元鵠沼間を、さらに翌年には片瀬江ノ島まで複線に戻されている。

 

こうして東日本の不要不急線を見るだけでも、指定された路線の多くにドラマが隠されている。一方で、軍事的な利用価値が高いとして、不要不急線として指定されることを免れた路線もある。例えば、長野電鉄の屋代線(やしろせん)がその例にあげられるだろう。

 

同線は2012(平成24)年にすでに廃止された24.4kmの路線だが、途中の松代(まつしろ)の近くに大本営が疎開するにあたり、大掛かりな地下壕(松代大本営)を掘削していた。この地下壕を設けるために不要不急線としての指定を免れたとされている。戦争中ということがあったにしろ、軍事優先の勝手な国の方針により、悲喜こもごもがあったわけだ。不要不急線は非常に不可思議な政策であったことは間違いない。

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