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「男らしさ」はもう捨てた? 「癒される」とじわじわ人気に…男3人の“ほっこりご飯ドラマ”『晩餐ブルース』に、それでも感じる“窮屈さ”とは

  • 2025年2月19日
  • CREA WEB

 夢を叶えたけど消耗する日々を送っているテレビディレクター・優太(井之脇海)と、料理人だった夢を諦めたニート・耕助(金子大地)が、一緒に晩ご飯を食べることで本来の心を取り戻していく「晩餐ブルース」(テレビ東京、水曜深夜1時〜)。

 SNSでは「こんな作品が観たかった」という意見があがり、じわじわと人気に。主人公同様に心をときほぐされている視聴者が増えている。でも、食で心を満たすような作品はこれまでにもたくさん作られているはず。本作のどこに独自性があり、何が人々を惹きつけているのだろうか。そこを深掘りして考えたい。


優太役を演じる井之脇海 ©Aflo

ごはんを通して気持ちがほっとする作品

 疲れた日常を忘れるおいしいごはんは、何よりのご褒美。忙しいと後回しになってしまいがちだが、食事は一番身近で手軽な、自分を大切にする方法(セルフケア)の一つでもある。それに栄養補給をして疲労回復をする意味でも、誰かとおしゃべりする時間を共有する意味でも、人とおいしいごはんを食べるメリットは大きい。

 映画『かもめ食堂』のヒット以降、この手のほっこり作品は増えに増えた。それだけみんな普段から疲れていて、コンテンツにも癒やしを求めてしまっているということだろう。

 主に深夜ドラマで「飯テロ」ドラマと言われるジャンルも流行った(「テロ」という言葉がカジュアルに使われる「飯テロ」という言葉には、抵抗感があるが)。以降、ドラマにおいて料理をどうおいしそうに撮るか、それを囲んだときにどんな会話が交わされるかは重要になってきている。本作も、まさにごはんを物語の軸に据えたドラマだ。

 高校時代からの旧友でもある優太と耕助は、もう一人の友人・葵(草川拓弥)の離婚をきっかけに再会。その後、耕助が優太を晩ごはんに誘うことで二人は再び会うように。その後、“晩餐活動”(略して「晩活」)を通して、再び親交を深め、お互いに自分の固くなった心を癒やしていく。

 おいしそうなごはんがでてきて、ほっこりできる。ごはんドラマの王道路線で制作されているため、深く考えなくとも気軽に視聴できるところも観心地の良さにつながっているのだろう。

ホモソーシャルなコミュニケーションを描かない

 気になるのは、耕助が提唱する「晩活」という言葉。耕助がつくったものを2人で食べ、話をするだけならば、本来「うちで飯食べよう」と誘うだけですむ。でも、男性同士のコミュニケーションにおいて、それはなかなか通用しない。男性同士が二人で会うには、酒やサウナのような、趣味の領域に近い別の置き換えが必要なのだ。

 同様に男性二人で「お茶しよう」は難しい。というのも、お茶の目的のほとんどは明らかに、近況や感情の共有だから。シス男(*)同士はそれをし合う文化に乏しい。労ってもらうことは女性に求め、男性同士ではお互いに弱さを見せ合わない。だからこそ、二人は活動名をつけ、一緒にご飯を食べる意味をぼかしたのでないか。サウナに行くことをわざわざ「サ活」というのも同様に。

 そうした、旧来通りの男同士の窮屈さが「晩活」という言葉から垣間見える一方で、2人の関係性には新しさもある。本作の中で優太が耕助の前で涙を見せたのは、とてもいい描写だったと思う。耕助も優太の弱さを茶化さないし、受け止める。優太と耕助だけでなく、葵を含めた3人の関係性も本作の見どころ。1話での葵の離婚報告の際、耕助は葵の心労を察して「大丈夫?」と聞く。

 これが旧来的な男同士の飲み会であれば正しい会話とされるのは「女紹介しようか?」となる(男性がホモソーシャルの価値観を内面化すると、女性を恋愛やセックスの対象か、ケアの提供者としか捉えられなくなる傾向がある)。でも、そうならないのがこの3人だ。

*シス男……シスジェンダー男性のこと。出生時に割り当てられた性とジェンダーアイデンティティが一致する男性の意味。

 3人は一緒に晩活をするようになるが、その際にそれぞれが自分の内面を言語化するような語りを自然とはじめる。これは本当にすばらしい。だって、旧来的な男性の生き方をする人間は、まだまだ感情を言語化せずに生きている人が多いように思うから。

 幼い頃から「男性だから」とジェンダーのステレオタイプを内面化し、感情を言語化する機会を奪われた結果、言語化されない感情を抱え、イライラや不満が募り、不機嫌な態度や暴言、はては暴力的な行動に走ってしまう人もいる。

 でも、これは現代の「東京の若者」的価値観なのか、本人たち固有のものなのか、この3人は現在、そうならないギリギリを保っている。3人のように自分の感情と向き合い、それを表現する人間になることはよりよい人間関係を築く有効手段だと思う。自分の気持ちを素直に吐くことができ、それを受け止め合う。しかもそれを、女性を介さず男性同士で行っている描写は、この作品の放つ“優しさ”に直結する。

男性同士のケアは必要だけど……

 ただ、こうした「男性同士のケア」を、なぜ今描こうとしたのか。そこが引っかかる部分でもある。


耕助役を演じる金子大地 ©Aflo

 もちろん、男性社会が今までに女性にケア労働を押し付けていた文脈を思えば、男性同士のケアは本来、当たり前に行われるべきだと思う。ただ、男性同士のケアを描くのであれば、そもそもケアしなければならない要因となる「男らしさの呪縛」から解放されるところも描く必要があると思っている。それなしに男性同士の連帯を描くと、それは女性蔑視や同性愛嫌悪を含んだホモソーシャル文化の強化につながりかねない。

 もし優太らがすでに新しい男性像を身に着け、ホモソーシャルな世界に馴染めていない側の男性であれば、今度はマチズモ(男性優位主義・男らしさ)に対する苦労・嫌悪感があったはず。だが、そういった描写に乏しく、伝わってこないのももどかしい。

 現時点で作中で描かれている優太のつらさは、「過酷な労働環境」に由来するものであり、「男であること」に由来するものではない気がする。これは、同僚たちが男女関係なくつらい思いをしている描写からも窺える。しかも、同僚女性のゆい(穂志もえか)は、同じ環境の中で「女性であること」を理由に余計な苦労を強いられている。

 プロデューサーになる前も今も、性差の壁や年齢の偏見、モラハラ・セクハラの被害など、ゆいがいろいろなことを経験してきたことは2話で容易に想像できる。優太はまだ男性として有利な立場で恩恵を受けていることを思うと、私は優太よりもゆいの物語を観たくなってしまう。

「コンプラ女王」と揶揄されながらも、古いテレビ業界の体質の中で戦うゆいを中心とする連帯がメインの話ではいけなかったのだろうか。これまで男性キャラクターたち同士の連帯のもと、女性キャラクターたちが分断・対立させられ続けてきたテレビドラマ史の中で、やっと近年増えつつあるシスターフッドドラマ。まだまだそんな作品は作られ続けていいはずだけど、あえてそうせず、今あえて男性同士の絆、友情を中心とするのはなぜだろう。

 もちろん「男だってつらい」も認められるべきだけど、それは今やっと叫ばれ始めた「女のつらさ」を「みんなつらい」で相対化、相殺させられてしまうのではないか。インターネット上の「弱者男性論」に利用されるのではないかという危惧もあり、慎重な態度で観てしまう。

 また、男性同士のケアを描くのであれば、男性同士の恋愛と結びつけてもいいはずだが、本間かなみプロデューサーは本作の構想を語った際に、恋愛に発展する話ではないと先に発言している。そうなると本作は男性同士の友情がメインのドラマとなるが、BLにはしないけどライトな「ブロマンス」ファンは射程に入れているのでは、と邪推を入れてしまいたくなる。

 というのも、井之脇海は「ギヴン」、草川拓弥は「みなと商事コインランドリー」、金子大地は「腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。」で、性的マイノリティ役を演じている。その配役で固めていることもうますぎて、それ故に余計な勘ぐりをしてしまう(もちろん、演技が素晴らしいので邪推なしに適役なのだけど)。

私たちが頑張るべき活動は「晩活」ではない?

 これまでのごはんを軸にしたドラマにおいて、すでに名作はたくさんある。男性同士のカップルの食卓を描く「きのう何食べた?」。料理を通じて惹かれ合っていく2人の女性を描く「作りたい女と食べたい女」。恋愛体質な女性とアロマンティック女性の共同生活を描く「今夜すき焼きだよ」。そしてもう一つ、本作が好きな方におすすめしたい作品がある。それが「かしましめし」だ。

「かしましめし」は同級生の自死をきっかけにアラサーの男女3人が再会し、それぞれの人生に悩みながらも、「おうちごはん」を囲み、やがて一緒に暮らし始める物語。

 主人公の千春(前田敦子)は憧れのデザイン事務所に入社したものの、上司からパワハラを受け、心を病み退職。その後、婚約破棄され、新設部署(閑職)への移動を命じられるナカムラ(成海璃子)、彼氏との関係がうまくいかない英治(塩野瑛久)という、同じ美大卒の二人の友人とともに暮らしだす。

 仕事に、恋に、人間関係に……うまくいかないことだらけだけど、一緒に美味しいごはんを食べればお互いに救われる。そして優しい人たちとただ寄り添って生きていることを描いた、三人の“かしましい”日常は観ていて心地いいものだった。

 男女の二元論の枠組みを超えて、もっと自由に交流しながらお互いのケアをする。これが一つの理想な気がする。本作は現状、男3人がケアし合う「晩活」であるが、そこにたとえばゆいが加わってもいいと思う。共闘できる者同士が、羽を休め、現実に立ち向かうための「晩活」。そういうものが、流行ってほしい。

 そうなったら、もう晩活なんて言い方をわざわざしなくてもいいのかもしれない。私たちがすべきは、ちゃんと自分自身を「生」きるための活動。すなわち、「生活」だ。

文=綿貫大介

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