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「子種が欲しいと頼まれたら 引き受ける? と夫に聞いたら…」 井上荒野が家族について考えること

  • 2024年2月12日
  • CREA WEB

 2024年1月に上梓された井上荒野さんの短編集『錠剤F』(集英社)と『ホットプレートと震度四』(淡交社)。不穏な空気が漂う「黒荒野」作品『錠剤F』と、温かな物語が詰まった「白荒野」作品の『ホットプレートと震度四』という対極の2冊について、そして長野での井上さんの暮らしや創作意欲を伺いました。


長野に引っ越して感じた小説の変化


長野での生活を話す井上荒野さん。

――東京から長野に引っ越してから、小説に変化はありましたか。

井上 あまりないのですけど、長野の風景は小説に出てくるようになりました。ずっと東京で暮らしていたから、東京の街並みしか書けなかったんですよね。舞台が広がった感じはします。

 一度だけ、現地へ行かずにGoogle マップで写真を見ながらパリを舞台にした小説を書いたけど、風景はディティールにつながるので、知っている場所を書くのが一番ですね。

――書籍『錠剤F』に収載されている「ケータリング」はまさに長野が舞台ですね。東京の三鷹でレストランを営んでいた夫婦が、八ヶ岳で新しく店を始めるというストーリーです。

井上 そうですね。私が住んでいるところは別荘地なので、ご近所づきあいはほぼ東京と同じ感覚です。でも、地元の人が代々住んでいるような集落だとそうはいかなくて、移住してきたけれど田舎の人間関係が合わなくて奥さんだけ帰る、というケースは耳にします。そういうお話から始まった小説です。


『錠剤F』の「刺繍の本棚」には、古本屋を営む夫が登場する

「知られざる夫の一面」を描いた「刺繍の本棚」

――長野には夫婦でお住まいで、パートナーの須賀典夫さんは古書店主でいらっしゃいますが、『錠剤F』の「刺繍の本棚」にはまさしく古本屋を営む夫が登場します。長年連れ添った夫婦なのに、夫には妻も知らない秘密があった、というストーリーです。

井上 私の考えとして、「家族でいても、夫や妻のことを100パーセント理解できることはない」と思っているんです。結婚して25年くらい経ちますけど、「夫が私の知らないところで人を殺していたら、どう思うだろう」という考えから生まれた話なんです。

――典夫さんは「刺繍の本棚」をお読みになりましたか?

井上 読んでいましたよ。私が執筆したものは全部読んでくれます。


井上荒野さん。

――どんな感想をおっしゃっていましたか?

井上 小説に関しては、絶対に褒めてくれるんです。「さすがだね」とか「よく思いつくね」とかそういうことを言ってくれます。そういうところは父の井上光晴と同じで、褒めないと私が小説を書くのをやめると思っているのかもしれませんね。

――典夫さんには、小説の設定を考える時に相談することもあるそうですね。

井上 私は会社勤めをしたことがないので職業に疎くて、作家と編集者と古本屋のことしかわからないんです。夫はいろんな職業を経験している人なので相談するといい意見がもらえたりするんですよね。主に長編の時なんかに尋ねるんですけど。

『錠剤F』の「ぴぴぴーズ」を考えていた時にも相談しましたね。コンビニの従業員の男の子が、働いている時に「あなたの子種がほしい」と声をかけられるんです。それで、もし「子種が欲しい」って頼まれたら、引き受ける?」って尋ねました。知り合いの男性編集者は「絶対引き受けない」って答えだったんですけど、うちの夫は引き受けるって(笑)。

「考え抜いた文章が、次の文を呼ぶ」

――2024年1月には、現・佐賀之書店店長の書店員・本間悠さんの推し作品「ほんま大賞」に、『照子と瑠衣』(祥伝社)が選ばれました。70歳を迎えた女性2人の逃避行を描いています。

井上 ありがとうございます。本間さんのディスプレイは凝っていて、本をかわいらしく飾ってくださるので嬉しかったですね。

――井上さんにとって、長編と短編の違いはどういうところにあるのでしょうか。

井上 作り方が違います。長編は連載する上でプロットをかなり作り込むんですけど、短編は登場人物のプロフィールと、その人がおちいった状況だけきっちり作って、ストーリーはあまり決めずに書き始めることが多い。「キャラクターが勝手に動き出す」のに近い感じで、ふとした登場人物の言葉で、「この人ってこんなことを言うんだ」という発見がある。

 そっちの方が面白い小説になりますね。長編で同じことをやると破綻して戻れなくなるのですけど。


井上荒野さん。

 小説って言葉がすごく重要で、「彼は悲しいんだ」と書くにしても、辛い気持ちになったのか、暗い気持ちになったのか。表す言葉は何通りもあるじゃないですか。どれを使うのがこの小説に一番適しているのかを考えるんです。そうやって考え抜いた一文が、また次の文を呼ぶ。そういうことが短編のほうがいっぱい起きる気はしますね。

創作意欲は「人間への興味」

――小説への創作意欲は、どこから湧いてくるのでしょうか。

井上 やっぱり人間への興味だと思いますね。例えば「ボーイミーツガール」とか、物語だけを考えるとストーリーが一定のものに集約されていくんです。でも人間に軸を変えると、「こういう状況で、こういう人がこうなった時はどうするんだろう」といくらでも組み合わせが出てくる。その「どうするんだろう」という謎を解くことが自分にとってのモチベーションになっているんですよね。

 もちろん「書けば解ける」とは限らないんだけれど、書くことで答えに近づく気がします。もしその時に解けなくても、次の小説で解けるかもしれない。そういう人間の心理や生きていくことへの謎が、私にとってのモチベーションだと思います。

ダウンな気持ちになるのも、小説のいいところ

――人にそれだけ思いを寄せられるのは、井上さんがいろんな人と出会ってきたからなのでしょうか。

井上 そういうことでもないんですよね。例えば、車の窓から、自転車で走る赤い服を着た男の子を見かける。どういう家に住んでんだろう。なんであの子、あんなに一生懸命に自転車を漕いでるんだろう。そういうところから着想したりしますね。

 あと、車で聞くラジオ。パーソナリティーとリスナーとのやりとりとか。とくに面白いとも思わずに聞いていても、いつまでも覚えている、ということがあって。「なんで私はあの話を覚えていたんだろう」と考え始めて小説になっていくんです。

 出来事そのものが気になることもあれば、言葉の使い方が気になることもある。そういう耳に残ったものは、アプリの「Evernote」に書き留めています。


井上荒野さん。

――創作の原点が詰まった、貴重なメモなんですね。

井上 なくしたら困っちゃいますね。短編を書く際に何にも思いつかない時やタイトルに良い言葉を探す時はメモを振り返っています。

“黒荒野”作品から“白荒野”作品へ

――昨今は動画視聴が増え、子どもの中には小説や漫画を読まない子もいると聞きます。

井上 だんだん読まれなくなっていくんだろうな、とは思いますね。「本は速読」「映画は早回し」で見る人が増えているそうですし、過程じゃなくて結果が必要なんだろうなと思います。そういう読み方が増えているのであれば、パッと読んだ時に印象に残る小説が増えていくんじゃないでしょうか。小説も映画も細部が面白いので、じっくりと観てほしいですけどね。やれる限りは、自分の小説を書いていきたいと思っています。

――最後に、短編集『錠剤F』と『ホットプレートと震度四』について読者にメッセージをいただけますか。

井上 『錠剤F』は読んだら暗い気持ちになるかもしれません。でも、ダウンな気持ちになるのも、小説のいいところで面白さだと思うんですよね。そういう気持ちになった上で、温かな物語が詰まった『ホットプレートと震度四』を読んでほしいです。そこからぜひまた『錠剤F』に戻って、作品を読み返してみてください。

井上荒野(いのうえ・あれの)

1961年東京都生まれ。1989年同人誌に掲載する予定だった小説『わたしのヌレエフ』をフェミナ賞に応募し、受賞。2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、2008年『切羽へ』で直木賞、2011年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、2016年『赤へ』で柴田錬三郎賞、2018年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞を受賞。著書に小説家の父について綴った『ひどい感じ 父・井上光晴』や、父と母、瀬戸内寂聴をモデルに描いた小説『あちらにいる鬼』なども。

文=ゆきどっぐ
撮影=山元茂樹/文藝春秋

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