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「わたしはカムパネルラになりたかった」 ヤングケアラーだった中村佑子が “固まらないこと”を求めた理由

  • 2024年2月13日
  • CREA WEB

心身のバランスを崩しがちな母と暮らしてきた映像作家の中村佑子さんは、ヤングケアラー当事者の本当の感情がどこか置いてきぼりであるように感じていたという。中村さんが、病の家族に付き添う時間について綴ったのが『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院)だ。執筆にかけた二年を経て、最後に別の風景が見えてきたという中村さんの同書より、一部を編集の上、紹介する。



「精神疾患を抱える家族をケアしてきた子について、書こうと思った」 撮影:中村佑子

固まることを禁じられた身体

 いまここで、本書の成り立ちを振り返ってみたいと思う。というのも、書き上げるまでわたしが右往左往した歩みそのものが、本書の本質的な問いにまっすぐにつながっていると思うからだ。

 まず、わたしははじめ母の精神科への入院に付き添った日々を書き、そこで出会った女性たちのかたわらにいて、彼女たちはわたしと変わらないと感じたことを書いた。彼女たちもわたしとともに病院の外に出られないだろうかと、苦しさと切ない気持ちのなかでもがいていた。

 精神疾患を抱える人を社会に戻そうとせず、長期入院を強いてしまう日本の精神科への疑問もわいたし、長期入院せざるをえない彼女たちにわたしは内なる連帯感を抱いた。その感情は、母に付き添って精神科病院という謎の多い文化に長らくつきあってきた時間のなかで育ってきたものだった。そして彼女たちとのおぼつかない、はかない連帯を、薄氷のような連帯と名づけたのだった。

 精神疾患を抱える家族をケアしてきた子について、書こうと思った。それは、いまの言葉では「ヤングケアラー」といわれる。それはわたし自身でもあるし、精神科病院にいる彼女たちもまた、家に子どもたちを置いてきていた。その子らはヤングケアラーかもしれないし、そもそも入院している彼女たち自身も、かつて家族をケアしてきた子だったかもしれないと、会話のはしばしから薄々感じていた。わたしは、女性たちの取材をはじめた。


「彼女たちとのおぼつかない、はかない連帯を、薄氷のような連帯と名づけたのだった」 撮影:中村佑子

 二件の成果物があり、二件のお蔵入り原稿が発生した。二件のお蔵入りに要した時間はゆうに五か月を超えていた。その間わたしは二人目の子どもを出産し、新生児を抱えながら取材執筆した原稿がボツになったのだ。

 わたし自身は初対面だった人への取材。その前からいくつかのボタンの掛け違いもあって、新生児との生活のなかで絞り出すように書いた原稿が表に出せなくなって、ここでわたしはたいへんに疲弊し、落ち込んでしまった。

 まずはいったん、自分のヤングケアラーとしての経験を書いたが、そのあと思い悩んで、また書けなくなった。その日々を打開したいとも思い、ユング派分析家の猪股剛さんにお話を聞きに、というよりも、自分の話をしに出かけたのだ。

 そうしてまた書きはじめ、かなこさんのお話を聞いた。

 こう書いていても、めちゃくちゃである、書けない旅。書きたい、でも書けない、暗中模索の旅のようである。無計画といわれてしまいそうだが、実はこうした右往左往はわたしの一つの手法ともなっている。

 いつもそういうところがある。はじめに何が描けるのか措定しない、したくない。全体を見渡さない。見渡して計画を立ててしまうと、何かもっと底の深いところでうごめいていたものが失われ、死んでしまうという感覚がある。

こうだと言い切ってしまいたくない欲求

 なるべくゴールはオープンにして、ピリオドは打たず、予測不可能な波に飛び込む。生き物に寄り添うように、生き物に伴走するように。それは全体を志向しないということでもある。むしろしたくないのだ。完成度よりも、紆余曲折して行きつ戻りつのプロセスのほうがつねに大事だと思ってしまう。

 人間は変化するし、いっときそういう姿に見えても、次の瞬間には変わる多面的なものだ。その変化や変貌を、そのままにとらえたい。こうだと決めて綴じ合わせれば、そのほうが完成された構築物として美しく、万人に受け入れられそうでもある。しかし、そうしたくないという力が働く。ドアを閉めずに開けておきたい。

 立ち止まってしまったわたしは、自分のなかのヤングケアラーの経験でさえ、こうだと言い切ってしまいたくない、意味をオープンにしておきたい欲求を抱えていることを確認した。自分のなかで結論がすでに出た、ある意味大文字になった記憶ではなく、どんな経験だったのか意味が定まらない、小文字の中間的な記憶が、自分を支えていることにも気づかされていた。


「ケア的主体とは、つねに変化のなかに身を置く訓練をしているということではないか」 撮影:中村佑子

不確実性のなかに身を置く人

 ここまで書いてみて、これは「ケア」というものが抱える、本質的な感覚ではないかと思い至った。不確実性のなかに身を置くことに慣れなければ、病に付き添う日々はなかなか受け入れられない。ケア的主体とは、つねに変化のなかに身を置く訓練をしているということではないか。

 そこでハタと思う。原稿を表に出すことを拒否した二名の取材対象者もまた、わたしと同じような心境だったのではないかと。お二人とも、わたしの取材にはとても好意的に答えてくださったが、原稿が形になったとき、こうした言葉を表に出すのは怖いと伝えられた。

 話すという行為は、自分の記憶を外に放つことなので、言葉は空気にとけていく。あるいは相手の脳のなかへと、谷に投げた石のように吸い込まれていく。しかし活字となって目の前に現れる言葉は、中間に漂ったものの定着であり、固定化である。そのことへの恐怖だったのではないかと。白も黒も定かではないケアの日々の記憶を、一つの形にしてしまうことへの戸惑いがそこに横たわっていたのではないか。

 第2章のマナさんと第5章のかなこさんは原稿にゴーサインを出してくださったが、お二人とも、ケアの日々のなかで激しく感情を行き来させていた。

 ケアを必要とする精神疾患を抱えた家族は、彼女たちにとって傷であり、刃であり、深い穴である一方で、光であり、憧れであり、生きる意味だった。そして彼/彼女は自分自身であり、一方であまりに他者のようだった。その両者のあいだを行ったり来たり、激しく動き回るのが彼女たちの語りだった。変化の激しい色彩を何度も反転させていた。その色彩は、ケアをしてきた人たち、とくに精神疾患の家族のかたわらにいた人の一つの特徴のように思えた。

 自分はこうだと家族に対しての立ち位置を決めても、家族の症状が急変し、どうしても手を差し伸ばさなければいけなくなったときは、迷わず手を差し出す。一度固まったと思った自己を、いつでも転覆可能な可塑的状態にしておかなければ、精神的な上がり下がりという、謎の多い症状の波に対応できない。あるいは、いまの自分は可塑的なのだと言い聞かせなければ、環境の変化に応じて揺れ動く激しい自己を許容できないかもしれない。

自分を消し去ることの甘美さを、わたしは知っていた

 病む母に身をうつしながら自己消滅の欲求に苦しんでいた小学生のころ、わたしは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のカムパネルラになりたかったと前述した。人を救うために、それもいじめっ子のザネリを救うために、川の底に沈んでしまったカムパネルラになりたかったのだ。あるいは、カムパネルラが鉄道のなかで言及する、自分を燃やすことで宇宙を照らすさそり座の星に。自分を消し去ることの甘美さを、そのころからわたしは知っていたのだろう。自己を燃やして漆黒の闇を赫々と照らすさそり座のイメージに囚われていた。

 実は、賢治のことは最初から好きだったわけではない。小さなころに図書館で読んだ〈よだかの星〉や〈注文の多い料理店〉などの童話に、何かおどろおどろしい汗くさい「匂い」のようなものを感じて、正直遠ざけていたようなところもある。


中村佑子/シアターコモンズ『サスペンデッド』より

 しかし大学生のとき、〈春と修羅〉のはじまりを読んだとき、雷に打たれたようになってしまった。

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です

 まさにわたしは、「私」をそのようにとらえていたのだと思う。わたしは、確固たる存在ではなく、現象としてそこにある。この輪郭線に囲まれた「私」という殻は、外から見れば一見固まっているようだけれど、いつでもその内部は燃えるようにうごめいており、外部の世界との交流や交換を起こしている。

 それはまさに現象と呼びたくなるもので、炎は酸素がなければ燃えないし、海は月の引力がなければ波立たない。雲は水蒸気が太陽によって温められ上昇気流とならなければ生成しない。

 同じようにわたしの身体中では、毎時毎秒すがたを変える細胞や血流、遺伝子や菌、果ては人間を宿主としたウイルスにいたるまで、見えないもの、感じられないものが死滅と生成を繰り返している。意志とは関係なく、知らないあいだに息を吸い、吐き、この大気のなかにわたしを交じらせ、わたしのなかに大気を取り込み、それを循環させて、わたしが成り立っている。

文=中村佑子

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