2024年12月21日から26日まで、東京・西麻布にある器と工芸のギャラリー〈桃居〉で、輪島塗の塗師(ぬし)・赤木明登さんの新作「合鹿椀(ごうろくわん)」の展示受注会が開かれた。赤木さんは工芸に関心のある人なら知らない人はいないほどの人気作家で、この合鹿椀も、店頭での直売分とオンラインでの受注分、合わせて130個がほぼ初日に完売してしまった。
輪島市の中心部から車で20分ほどのところに工房を構える。
合鹿椀は能登に古くから伝わる椀で、一度は途絶えたものの、1970年代にふたたび注目されるようになったという。今回の合鹿椀受注会は「小さな木地屋さんプロジェクト×赤木明登」と銘打たれており、売り上げは「小さな木地屋さん」存続のための資金となる。
その「小さな木地屋さん」とは、赤木さんの椀木地を挽いていた木地師のうち最高齢だった86歳の池下満雄さんのこと。2024年元日に起きた能登半島地震のあと、赤木さんがいち早く再建に動いたのがこの「小さな木地屋さん」だった。
輪島塗をはじめ、漆器づくりは基本的に分業制で、いろいろな専門の職人の手を経てつくられていく。木地師は漆器のベースとなる木地をつくるという最初の工程を担い、とても重要な仕事だが、従来、工賃が安いという問題があった。そのため継ぐ人がなかなかおらず、担い手は減る一方。
木地師だけでなく、どんどん職人がいなくなり、このままでは産地が成り立たなくなる、なんとかしなくてはと赤木さんが常々思っていたところに、地震が起きた。
元日、赤木さんは群馬県の温泉で休暇を過ごしていたが、4日になんとか輪島の自宅兼工房へ戻ってきた。幸い大きな被害はなく、6日に輪島の中心地まで行き、池下さんの工房を見に行くと、建物はほぼ全壊で池下さんはいなかった。
近所の人に聞くと、池下さんは地震直後、工房の前に呆然と座り込んでいたのだという。津波がくるから逃げるように促されてもそこを動こうとせず、2日間座り込み、3日目についに意識を失って病院へ搬送されたそうだ。
「そのときの池下さんの胸中を想像するに、“71年間ここで職人をやってきて、最後がこれか”と絶望したんじゃないか。その絶望した状態のまま死なせられないと思って、まずここを再建しようと決めました」
赤木明登さん。自宅兼工房は被害は少なかったが、金沢に2次避難し、4月に輪島に戻って来た。
職人というのは、かけがえのない存在だと赤木さんは言う。
「池下さんの家は江戸時代から代々その場所で仕事をしてきて、池下さんの体の中には、輪島の伝統的な椀のいい形が血となって流れているんです。僕はそれを引き出して、現代の都会の暮らしのなかでかっこよく使えるようにディレクションしているわけですが、それは僕ひとりの力ではできない。協働することによって個人の力を超えたものができてくる。
僕は池下さんと協働しているけれど、池下さんだけではなくて、池下さんのお父さんやお祖父さん、その前の先祖とも協働しているということなんです。だからここで途絶えさせてはだめだと思いました」
大きく傾き、崩れかけていた池下さんの工房。(写真提供:赤木明登)
支援のため工房を見に来た赤木さんの同郷の工務店の人には、再建は難しいだろうと言われたが、大工の棟梁は直せると判断。赤木さんは加賀温泉の旅館に避難していた池下さんを訪ね再建の許可をもらうと、2月中旬から工事に取りかかり、3月の終わりに完成した。
岡山の工務店と大工が復元、耐震改修して再生された木地屋さん。(写真提供:赤木明登)
「こんなボロボロの建物を再建して意味があるのかと言う人もいました。でも僕はそこが輪島で一番美しい場所だと思っていたんです。海外からお客さんが来てもそこに連れて行って、ほらきれいだろうって。昭和のはじめから時が止まったような空間で、決して贅沢な建物ではなく、どちらかというと粗末なつくりなんだけれど、でも職人さんらしい美しさのある木造の建物。そんな輪島らしい伝統的な職人の建物の象徴として再建したかったのです」
4月中旬から、再建された工房で仕事が再開され、赤木さんの工房からも、技術を受け継ぐため2名の職人が出向した。
赤木さんの工房から出向中の若手職人に仕事を教える池下さん。(写真提供:赤木明登)
ところが、2か月半ほど経った7月1日、池下さんは亡くなってしまう。その後、「小さな木地屋さん」は76歳の木地師、山根敏博さんが引き継いでくれたが、なんと山根さんも10月に病に倒れ、そのまま11月に帰らぬ人となってしまった。
12月に行われた合鹿椀の受注会の店頭で先行販売された20個の椀は、山根さんが挽いたものだった。その後も、息子の山根敏之さんと赤木さんの工房から出向しているふたりが合鹿椀を挽き、その技術と魂をつないでいる。
「小さな木地屋さんプロジェクト」から生まれた合鹿椀。
「小さな木地屋さん」は法人化の手続きを進め、赤木さんが自ら代表取締役となり、株式会社〈木地屋〉を設立。今後も輪島塗の土台となる木地職の存続のため、力を尽くしていくという。
赤木さんは輪島でオーベルジュも営んでいた。以前ゲストハウスとして使っていた古民家を、1階をレストラン、2階を宿泊施設として改装し、2023年7月に〈茶寮 杣径(そまみち)〉としてオープンした。設計は建築家の中村好文さんが手がけ、能登の素材を生かした北崎裕さんの洗練された料理は評判に。
だがその建物も母家と土蔵が半壊、納屋は全壊となってしまった。修復したいと考えているが、かなりの時間を要するため、急遽、別の場所に臨時店舗をつくった。それが〈海辺の食堂 杣径〉だ。
〈海辺の食堂 杣径〉。元の店舗と同じく中村好文さんが設計を手がけた。
もともと赤木さんが手がける小さな出版社〈拙考〉の編集室として使っていたその建物も、ほぼ半壊状態だった。柱は折れ、建物全体が傾いていたが、ワイヤーなどを使って真っ直ぐに立て直した。木地屋さんは1500万円、この杣径の臨時店舗も2500万円ほど費用がかかったというが、赤木さんは補助金に頼らず、善意による支援金を多く集めて次々に古い建物を直し続けている。
「東日本大震災のあと、何度も東北に行きました。そこでは地震でいろいろなものを失った喪失感よりも、そのあと自分たちが住んでいたまちが解体され、工業製品のような家ばかりのまち並みになったときの喪失感のほうが大きかったという声をよく聞きました。それをなんとか阻止したいけれど、どうしようもない。だから、個人でできることをやっていこうと思いました」
元のオーベルジュ〈茶寮 杣径〉はグルメガイド『ゴ・エ・ミヨ』にも掲載された。海辺の食堂でもその料理人、北崎裕さんが腕を振う。
いま輪島でも公費解体が進んでいる。半壊や全壊と認定された建物は公費で解体することができ、更地にすると条件により補助金も出る。ただ、それで新築の家が建てられるほどの額ではない。そうすると、当然家を建てられない人も出てくる。
一方で仮設住宅が建てられ、土地は買われ、風景は変わっていく。実際には解体にも仮設住宅の建設にも公金が使われているのだから、その分を壊れた家の修繕に使えば、解体せず元に戻せる家もある。だが個人が所有する資産に公金を投入することはできないという原則があるため、そうはならない。
赤木さんはそんなシステムに異を唱え、「工芸的な復興」をすべきだと話す。
「国がやろうとしている復興は、交換可能性を前提としています。つまり、日本のどこで災害が起きても、同じものをつくるという考え方です。それでは津波で流されて新しくできたまちは、ほかのどこかのまちと同じようなまちになってしまう。そうではなくて、交換不可能な復興があるんじゃないかと思っています。
たとえば亡くなった池下さんは交換不可能な存在です。そういう交換不可能な存在になることが、人間にとって生きがいになるんじゃないでしょうか。建物も同じ。能登の景観は千年くらいの時間をかけて自然と人間が交わりながら築き上げてきた景観です。その景観で培われてきた建物を可能な限り生かしながら、帰ってきたら懐かしいと思うようなまち並みを保存するべきです。
それは観光地でなくても、どんな場所でもそうだと思います。そういう交換不可能な、工芸的なまち並みの再生や、交換不可能な個人のあり方があるんじゃないかと思っています」
店名どおり、海が近い。
赤木さんは、解体されそうになっていた杣径の隣の家と、向かいの家も持ち主から購入。どちらも古く、地震で一部損壊しているが、どちらも直して使おうと考えている。杣径と同じように格子戸を入れ、統一感のあるまち並みを取り戻したいという。
半壊状態の隣の家を取得し、直そうとしている。
向かいの家も修復する予定。
「お向かいの家は、2階から海が見えるので、ゲストルームにして宿泊できるようにしたい。1階では、本屋さんをやりたいと思っているんです。輪島に3軒あった本屋さんが全部倒壊して本屋さんがなくなってしまったので。本屋さんの名前も考えているんですよ。
元の杣径を修復したら、いまの店舗は出版社のショップにするか、別の飲食店をやってもいい。カジュアルなイタリアンとかね。そんな楽しいことでも考えていないとね」
そう話し、赤木さんは静かに笑った。
赤木さんが輪島に移り住んだのは1988年。それまでは東京の出版社で編集者として働いていた。一文無しでやって来た赤木さんを受け入れ、技術を授けてくれた輪島の人たちに何か還元したい。そんな思いで、いま赤木さんは弟子入りしたいという若い人たちを受け入れている。
地震をきっかけに、労働環境も見直した。それまでアルバイトだったスタッフも正社員として雇い、週休2日制で社会保障も完備した。会社として利益は出にくいが、漆文化を守るための投資だと思っているという。後継者を育てることが、工芸の世界では急務だ。
漆器や工芸の世界にとどまらず、日本の未来に赤木さんは危機感を覚えている。
「日本はこの30年くらいで急速に多様性を失っています。どの分野の職人さんも減り、それによって失われていく技術がたくさんある。先進国でありながら伝統的な技術も残っているのが日本のいいところだったのに、それが失われつつあります。それを少しでも食い止めないと」
〈拙考〉から出版された赤木さんと堀畑裕之さんの共著『工藝とは何か』特装版の箱。
今年、赤木さんはイタリアのブランド〈ブルネロ・クチネリ〉とのコラボレーションで、日本とイタリアで展覧会を開催することが決まっている。クチネリもイタリアで村を再生させ、職人を育てる取り組みをしているという。世界中の同じような考え方を持つ人たちと手を携えて、職人の技術を守り、受け継いでいく。
能登にはまだものづくりがかろうじて残り、食材も豊富だ。いまこそ能登が地場産業としている農業や漁業、林業などの第1次産業が重要だという。
「いま能登がこういう状況だからこそ、1次産業を支援してみんなで盛り上げていくきっかけになればいいと思います。実は能登には東京の星付きレストランに直接野菜を卸しているような農家さんもいます。おいしい西洋野菜があって、能登豚、能登牛、能登鶏の畜産業者もいる。能登は食材にはとても恵まれているんです。
それらに光を当て、がんばってくれている料理人たちもたくさんいます。杣径も基本的にはその日手に入った能登の食材で料理をするのがコンセプト。この土地でしか味わえないものがたくさんあるし、食は能登に人がやって来るきっかけになるはずです」
2024年を振り返ると「あまり記憶がない」という赤木さん。
「地震が起きたあとは、魂がどこかにいっちゃった感じ。大変だったでしょうとよく言われますが、苦しいとか辛いというのはなくて、ある意味、呆然としているんでしょうね。とにかくこれをやらなきゃいけない、ということをこなしていました」
2025年は、元の杣径を再開させ、思うようにできなかった展覧会も開催したいという赤木さん。そしてこれからも、ものをつくり続けたいという。
「この世界は緩やかだけど、どんどん壊れていっています。エントロピー増大の法則で、形あるものはすべて崩壊に向かっていく。それが強く現れるのがこういう自然災害なのです。
僕はその壊れゆく世界のなかでそれに抗ってものをつくるということが、生きるということだと思っています。僕はお椀屋さんだからお椀をつくっていますが、家もまちも器だと思っているから、家もつくりたいし、まちもつくりたい。大勢で何かするのが苦手だから、ひとりで勝手にどんどんやっているだけです」
絶望もしてないが楽観もしていない。いま自分がすべきことをまっすぐに、精一杯やっている赤木さんの姿は、どこか達観したようにも見える。そんな赤木さんがつくる“器”を、これからも楽しみにしたい。
profile
赤木明登 Akito Akagi
あかぎ・あきと●1962年岡山県生まれ。中央大学文学部哲学科卒。編集者を経て、1988年に輪島へ。輪島塗の下地職人・岡本進のもとで修業、1994年独立。以後、輪島で器をつくり、各地で個展を開く。漆作家としての活動のみならず執筆活動も20年にわたって継続的に行っている。著書に『美しいもの』『二十一世紀民藝』『工藝とは何か』(堀畑裕之共著)など。
information
海辺の食堂 杣径
住所:石川県輪島市門前町鹿磯1-17
Instagram:@_somamichi
editor profile
Ichico Enomoto
榎本市子
えのもと・いちこ●エディター/ライター。東京都国分寺市出身。テレビ誌編集を経て、コロカルの編集に携わる。映画と現代美術と旅が好き。
credit
撮影:ただ(ゆかい)