能登半島の最北端に位置し、能登半島地震の甚大な被害を受けた珠洲市。それまで珠洲という地名を知らなかった人も多いかもしれないが、アートに関心のある人たちには知られていた。2017年から珠洲市を舞台に〈奥能登国際芸術祭〉が開かれていたからだ。
「さいはての地に最先端の美術を」と始まった芸術祭は3年に1度開催するトリエンナーレ形式で、2020年はコロナ禍のため翌年開催となったが、2023年までに3回開催された。芸術祭を訪れ、アートだけでなく、その圧倒的な自然や美しい里山里海の風景、そして巨大な行燈の山車が引き回されるキリコ祭りなど独特の文化に触れ、この地に魅了された人は多い。筆者もそのひとりだ。
2017年の芸術祭から常設されているトビアス・レーベルガー『Something Else is Possible/なにか他にできる』。この作品は被害はほとんどなかった。
双眼鏡をのぞくと、看板の「Something Else is Possible」という文字が見える。いま見ると何か別の意味を帯びてくるようにも感じられる。
芸術祭を機に、珠洲に移り住んだ若者たちもいる。芸術祭実行委員会とともに運営に関わる仕事をしたり、会期後も作品のメンテナンスなどをする一般社団法人〈サポートスズ〉の一員である小菅杏樹さんと西海一紗さんも、2022年に珠洲に移住してきた。
小菅さんは、2021年の芸術祭「奥能登国際芸術祭2020+」で実行委員会事務局で活動していた姉を訪ねて珠洲に遊びにくるうち、自身も芸術祭に関わりたいと移住。西海さんは東京で働いていたが、違う場所で暮らしたいと思っていたときにサポートスズの求人を見つけ、面接のため訪れたのが初めての珠洲だった。そのときに「ビビッときた」そうで、面接にも合格して移住してきたのだという。
2022年に珠洲に移住してきた〈サポートスズ〉の小菅杏樹さん(左)と西海一紗さん(右)。
それからは芸術祭の準備で忙しい日々を送り、2023年9月23日から11月12日まで開催された芸術祭を駆け抜け、会期後も後処理などであっという間に年の瀬を迎えたところに、地震が起きた。
元日、西海さんは珠洲にいた。たまたま友人の家にいたが、自分の家は全壊。1月10日に珠洲を出て、金沢から小松空港へ向かい、北海道の実家へ。それから3月までは実家で過ごした。
小菅さんは実家の奈良にいたが、珠洲に置いてきた猫の様子を見るため地震からまもなく珠洲を訪れると、地域の人たちが猫を保護してくれていた。猫を救出していったん奈良に戻り、3月は新潟県の越後妻有〈大地の芸術祭〉の運営チームであるNPO法人〈越後妻有里山協働機構〉に1か月間出向したという。
傾いたままの電柱はあちこちに見られる。
周囲の人たちも被災し、この先どうなるかわからず、不安と混乱の日々が続いたが、東京ではいち早く、芸術祭の総合ディレクターを務める北川フラムさんが〈奥能登珠洲ヤッサープロジェクト〉を発足。
「ヤッサー」は珠洲のお祭りで使われる掛け声。芸術祭で生まれた縁を大事にしながら復興の力となるため動き始め、芸術祭の作品制作を担う〈アートフロントギャラリー〉のスタッフが毎週のように珠洲を訪れ、地域の手伝いや作品の状況を確認していったという。
いまここでやれることを先が見通せないなか、サポートスズのスタッフの一部は3月でいったん解雇となってしまう。それぞれが複雑な思いのなかで、それぞれの選択をしなければならなかった。
西海さんは、荷物もそのままだったこともあり、とにかく一度珠洲に戻ろうと4月に戻ってきた。
その頃、いち早く営業を再開していた銭湯〈海浜あみだ湯〉は、すでに地域の人やボランティアなどさまざまな人が集まる場になっていた。あみだ湯をサポートする人たちが寝泊まりしていた大きな一軒家があり、西海さんもそこに滞在し、あみだ湯を手伝いながら、これからどうするかゆっくり考えようと思ったという。
2023年にできた常設作品ラグジュアリー・ロジコ『家のささやき』。被害はほぼなかった。
使われていなかった能登瓦を使用した作品。一枚一枚が可動で、風が吹くとふわっと浮き上がり、屋根が呼吸をしているよう。
そうするうち、5月からヤッサープロジェクトのウェブサイトを整え、情報発信をするという仕事を依頼された。
「ここにずっと残ろうと強く思っていたというよりは、いま自分にやれることがあって、ここにいられるならいたい、という思いでした。最初は明日どうする、という感じで先のことは考えられませんでしたが、フラムさんに珠洲の記録係となってほしいと言われたことで、役割があるんだったらここにいられるかもしれない、いてみようと思いました」(西海さん)
2021年に旧小泊保育所に制作された山本基『記憶への回廊』。
小菅さんも、無職となったが4月に珠洲に戻ってきた。
「大地の芸術祭への出向が終わって、そのまま実家に戻るという選択肢もあったのですが、芸術祭で地域の人たちにもお世話になって、いろいろな人たちとつながりができたのに、このまま去るのは嫌だなと思いました。冬がくる前まではいられるかなと、やれることをやろうと思いました」(小菅さん)
小菅さんもあみだ湯を手伝ったり、芸術祭に関わってくれた地域の人の家の片づけなどを手伝う日々を過ごした。
珠洲とも関係の深い塩を使った作品だが、塩の塔が崩れてしまった。作家は当初は修復するつもりだったが、ここで何度かアートゼミやワークショップを開くうち、このままにすることも考え始めたという。
保育所だった部分もそのまま残されている。組み合わせた写真ではなく、実際にこのように境界線できっぱり分かれている。
西海さんは、珠洲でお世話になっている、ある人の家の片づけに行ったときのことが忘れられないという。
その人の家は大規模半壊で解体することになり、残すものと処分するものを分けながら、荷物を運び出していた。西海さんは手助けとなりたい一心で、手際よく作業を進めていたが、作業後、夜ごはんを食べているときに、その人に胸の内を明かされた。
手伝ってくれるのはありがたいが、次から次へと急かされるように荷物を運び出されるのはなかなか心が追いつかない、早く解体すればいいというものではないと思っていると。
「たしかにそうだなと思いました。解体がなかなか進まないという報道もありますが、地元の人たちにとっては、突然きた家との別れに向き合う時間も必要なんですよね。それからは、地域の人のお手伝いに行くときは、運び出す作業よりもその人と家との思い出を聞く時間を大切にするようになりました」(西海さん)
その後、休眠預金活用事業の資金分配団体である一般社団法人〈RCF〉より助成金を受けて、7月からサポートスズの活動が復活。サポートスズを離れたメンバーもいるが、西海さんは引き続き業務委託を請け負うかたちで関わり、小菅さんは再雇用され、奥能登珠洲ヤッサ―プロジェクトと連携しながら日々の業務を行っている。
地域のハブとなる銭湯〈あみだ湯〉西海さんや小菅さんとも深い関わりのあるあみだ湯は、1月19日に再開。水道復旧にかなりの時間を要した珠洲でそれが可能だったのは、あみだ湯では地下水と薪を使っていたからだ。
現在もさまざまな人が集まるコミュニティの場であり、地域のハブのようになっているあみだ湯の中心的メンバーが、NPO法人〈ガクソー〉の新谷(しんや)健太さん。
「僕の家も住めなくなったし、スタッフもみんな被災しましたが、幸いこのあみだ湯は残っていたので、できることはこれしかないなと」(新谷さん)
〈ガクソー〉の新谷健太さん。
避難所には自衛隊風呂が用意されたものの、ひとりが入れる時間も限られ、避難所に避難していないのに風呂だけ利用するのも気が引けるなど、入れない人もいた。発災直後のあみだ湯には1日平均450人ほどの人が訪れ、休憩所も駐車場も満杯に。長く風呂に入れなかった人たちが温かい湯に浸かり、ほっとひと息つける場所は、どれだけ地域の人たちを元気づけただろう。
新谷さんは北海道出身。金沢美術工芸大学の学生時代から、サークルのキャンプで毎年珠洲を訪れていた。珠洲では芸術祭が始まる前からアートプロジェクトが少しずつ始まり、美大のゼミでそんな活動にも関わっていた新谷さんは、最初の芸術祭が開催された2017年に珠洲に移住。奥能登の手つかずの自然や文化に触れ、ポテンシャルを秘めていると感じたという。
ガクソーは珠洲市内にある旧額縁店を活用し、地域の教育格差是正に取り組み、教育支援をするNPOだ。
「奥能登文化を額装して発信したり、子どもたちにとって額縁のような社会の窓を提供していこうという思いでスタートしました」(新谷さん)
新谷さんはガクソーの「寺子屋美術部」として、美術教育のサポートをしている。地震後もあみだ湯の2階を使って、美大を受験したいという高校生にデッサンを教えたり、子どもたちに絵を教えたりもしている。地域によって追いたい夢を追えないというということがないように活動しているのだ。
あみだ湯は、オーナーの高齢化に伴い、2年ほど前からガクソーの有志4、5人で手伝うようになり、2023年5月頃から本格的に引き継ぎ始めた。困難な経営だったが、ある程度経営のめどがたち、正式に事業承継しようかという矢先に地震が起きた。
それからはいろいろな人を受け入れながら、地域のニーズを吸い取り、ボランティアを派遣するなど、市の社会福祉協議会だけでは手が回らない部分をサポートする民間ボランティアセンターのような役割も果たしてきた。
地域の人がたまに木材を切りに来てくれる。
そんな状況も少し落ち着き、夏からはサポートスズが主催する「ちゃべちゃべサロン」にあみだ湯も協力。珠洲市の復興計画策定のため、住民の声を届ける交流の場だ。
あみだ湯のほか、芸術祭の拠点でもある大谷地区の〈スズ・シアター・ミュージアム〉〈潮騒レストラン〉、それに金沢に避難しているガクソーのメンバーが活動するガクソー金沢支店の3拠点でさまざまな声をすくい上げ、集約している。
「春くらいまでは目の前のことをひとつひとつをやってきて、少しずつですが先のことを考えられるようになってきました。2025年は、まずはきちんと事業承継をしたいと思っていますが、お客さんが減っていくのは目に見えているので、そのなかでどう新しい価値を見つけてやっていこうかなということはいろいろ考えます」(新谷さん)
ボイラーも年季が入っている。
そのなかで一番の目標はオフグリッド化だという。
「自給型インフラを整備したいんです。いまもボイラーは薪を炊いていますが、それで火力発電ができないかとか、その排水で水力発電ができないかとか。水を温められたら銭湯は成り立つので、そうやって災害に強い銭湯になっていけば、銭湯の価値も高まる。いま京都や東京の銭湯の人たちともつながりができてきて、そんなおもしろいコミュニティが広がっていくと、いろいろできることがあるんじゃないかと思います。銭湯から考えるまちづくりとか、何かワクワクすることを考えないと」(新谷さん)
ここ数か月で移住してきた人もいるそうだが、新谷さんは、もっと仲間が増えてくれたらいいと思っている。そのためにも、まずは現地に来て自分の目で見てもらえたら、と話していた。
外から人が訪れ、地域の雇用を生む場所にあみだ湯がある内浦の反対側、半島の外側に面した外浦の大谷地区。ここにあるスズ・シアター・ミュージアムは2021年の芸術祭、隣接する潮騒レストランは、2023年の芸術祭に合わせてオープンした。
スズ・シアター・ミュージアムは、旧西部小学校の体育館を活用した施設だ。「大蔵ざらえプロジェクト」として、過疎高齢化で家じまいをする珠洲の家々から民具や生活用具を収集して保存。アーティストたちがリサーチをしながらそれらに息を吹き込み、生まれ変わった作品はスズ・シアター・ミュージアムで展示された。
ここに入りきらないたくさんの民具は近くの分館に保存されているが、ともに被害を受けた。
〈スズ・シアター・ミュージアム「光の方舟」〉。8組のアーティストの作品が展開されており、地震で一部崩れたりしたが、作家と共に少しずつ修繕を行っている。
一部、地震の被害をそのまま見せる展示にすることも検討中。
旧大谷保育所を利用し、集落から集めた民具や生活用具を収蔵・展示している〈スズ・シアター・ミュージアム分館 大蔵ざらえ収蔵庫〉。9月の奥能登豪雨で土砂が流れ込んだ。
潮騒レストランは坂茂さんが設計。外浦の海を一望できるロケーションで、地元でとれる新鮮な食材を使った料理を提供していた。会期中は芸術祭を訪れた客で賑わい、会期後も地元の人に利用されていたが、地震後は休業。8月に再開できたが、9月の豪雨の影響で電気と水道が使用できず、再び休業を余儀なくされた。
窓越しに外浦の海を一望できる〈潮騒レストラン〉。
テラス席も設置できる。
潮騒レストランで店長を務める加藤元基さんは、芸術祭のことは知らなかったが、ここで働くために2023年3月に名古屋から移住。元日は実家の名古屋にいたが、すぐに珠洲に戻り、避難所の手伝いに入ったそうだ。
「芸術祭のタイミングでオープンして、地域の人には、なんか外からきたやつがやってるぞって思われていたと思います。夏に再開したときは、最初は工事業者の人やボランティアの人が多かったのですが、地元の人もよく来てくれて、ああここにいてよかったんだなと思いました」(加藤さん)
潮騒レストラン店長の加藤元基さん。
座席数は90ほどもあり、芸術祭のときはアルバイトの人も含めると20人ほどのスタッフがいた。市外から来た人が立ち寄るスポットとなり、人を雇用できるような場になればという思いもあるが、いまはまだ再開のめどは立っていない。大谷地区は浄水場が土砂で埋まり、このあたりに飲める水が通るようになったのは、この取材の1、2日前だったという。
海岸の白い部分は地盤が隆起したところ。以前は海だった。
それでも、マイナスなことばかりではないと加藤さん。
「いまはボランティアや工事業者、メディアなど芸術祭と同等かそれ以上に多くの人が足を運んでくれています。移住者も少しずつ増えていますが、もし将来的に仮設住宅が市営住宅になって残れば、移住者を受け入れる家も増える可能性があります。
全国的に高齢化が進むなかで、10年後、20年後に起きる問題がいまここで起きていて、どちらにしても考えないといけない問題なのだと思います。いい方向に復興していけばプラスの経験になるし、ここにいる意味があると思っています」(加藤さん)
スズ・シアター・ミュージアムも潮騒レストランも、修繕工事が終われば再度オープンする予定だ。
2023年に制作された牛嶋均『松雲海風艀雲』。地滑りで下に落ちてしまった。
珠洲の記録を残して、前に進んでいくいま珠洲では徐々に公費解体が進み、更地となって、新しい建物の基礎ができ始めている。実際に早いところではもう新しい建物が建っているところもあるという。復興が進むのはいいことだが、まちの風景が変わってしまうことは地域の人たちにとっては複雑だ。いまも壊れかけの家にそのまま住んでいる人もいる。
西海さんが暮らしていた家は公費解体され、いまは更地になっている。
元の家からは海へと一直線に道が続いていた。そこから見える景色も少しずつ変化している。
そんななか、サポートスズではコミュニティアーカイブをつくろうという活動が始まっている。珠洲の記録と人々の記憶を残していくためのアーカイブを、どうつくっていくのか。
その先行事例といえるのが、東日本大震災後、〈せんだいメディアテーク〉に開設された〈3がつ11にちをわすれないためにセンター〉だ。この活動は、市民や専門家、アーティストたちが協働し、地域の復旧・復興のプロセスを映像やテキストなどさまざまなメディアを使いながらアーカイブとして記録し、発信していくもの。
6月には東京のアートフロントギャラリーで、北川フラムさんとせんだいメディアテークのディレクター甲斐賢治さん、それに西海さんで、どうしたら珠洲でコミュニティアーカイブの活動ができるのか、公開ミーティングを行った。その後もいろいろな人に珠洲に足を運んでもらいながらリサーチと下準備を重ね、2025年5月の開設をめざしているところだという。
この1年は、西海さんや小菅さんにとって、長いようなあっという間のような、不思議な時間の流れだったという。
「最近は、少しずつ周りを見渡せるようになってきた気がします。この人はこういう活動をしてるんだとか、この人も同じようなことを考えているんだなとか。それぞれ別に動いていた人たちが、横で手をつなぎ始めたような、そんな空気を感じています。2025年は、いままでと違う動きや大きな流れが出てくるんじゃないか。それがいい方向に向かっていけばいいなと思っています」(西海さん)
「珠洲に思いを寄せてくれる人が、これからも増えていってほしいですね。自分自身も記憶が薄れていくこともあるけれど、そんなときにこれからやろうとしているアーカイブが、大切な思い出のアルバムのようになると思いますし、珠洲を知らない人が知りたいと思ったときに、いろいろなものが見えるようになると思います」(小菅さん)
芸術祭に関わったアーティストも、何度も珠洲に足を運んでくれている。定期的にワークショップを開催したり、あみだ湯に通ってまかないをつくってくれるアーティストもいるという。地震以前の珠洲を知っていて、地域のことを掘り下げて作品を制作したアーティストが来てくれることはうれしく、心強いと彼女たちは話す。
そんなアーティストたちや気にかけてくれる人たちの存在は、珠洲のためにがんばる彼女たちの支えになっているのだ。
そして彼女たちも新谷さんと同じように、できれば珠洲に来てみてほしいと話す。
「来られなくてもたまに思いを馳せてくれたら。珠洲や能登のことを忘れないでいてほしい」(西海さん)
いまはまだ、芸術祭の開催について何か言える段階ではない。当然、地域の人たちの暮らしが最優先だ。けれど、芸術祭があったことで広がってきた人と人とのつながりや若い力が復興の原動力になることはたしかだ。いまは思いを寄せながら、少しずつ前に進もうとしている珠洲の人たちを応援したい。
information
奥能登珠洲ヤッサープロジェクト
web:奥能登珠洲ヤッサープロジェクト
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Ichico Enomoto
榎本市子
えのもと・いちこ●エディター/ライター。東京都国分寺市出身。テレビ誌編集を経て、コロカルの編集に携わる。映画と現代美術と旅が好き。
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撮影:ただ(ゆかい)