Next Commons Lab/paramitaを率いて、地方からポスト資本主義的な新しい社会をつくることを目指す林篤志さんが推薦するのは、山形県遊佐町で着物や反物からプロダクトを制作する〈Oriori〉の代表、藤川かん奈さんです。
推薦人
林篤志
Next Commons Lab/paramita代表
Q. その方を知ったきっかけは?
プロジェクトをご一緒したことがきっかけ。
Q. 推薦の理由は?
地域おこし協力隊として活動された後、ヴィンテージ織物や着物のブランドを立ち上げ、その後は地域の高校魅力化プロジェクトなど教育分野にも積極的に関わっている方です。まさに地域の顔として、かん奈さんによって多くの人が巻き込まれ、彼女を通じて新たなプロジェクトや取り組みが次々と動き出しています。その一方で、周りの皆がいつも楽しそうにしています。不思議な魅力で、次世代のローカルを牽引する人です。
山形県の形はよく、人の横顔にたとえられる。その「おでこ」に位置する最北部の遊佐町は、日本海と鳥海山という雄大な自然をのぞむ、人口1万3000人弱の小さなまちだ。
京都で生まれ育った藤川かん奈さんは、移住して10年ほど経つこの遊佐町で、ヴィンテージ反物・着物をリメイクするブランド〈Oriori〉を立ち上げ、廃校の危機に瀕した公立高校の魅力化を図り、豊かさを享受するだけではないまちづくり・人づくりを実践している。
山形県と秋田県をまたいでそびえる鳥海山。手前は、遊佐町唯一の公立高校である遊佐高校。
縁もゆかりもない遊佐町にたどり着いた経緯を尋ねると、「高3のとき、国連に入りたいと思ったんです」と語り始めた。なぜ国連から遊佐町になったのか、そこには壮大な冒険と発見があった。
「大学進学後、世界の貧困について知らなければいけないと思い、バックパックひとつで発展途上国を旅していました。だけど、どうして貧困が起こるのか考えても無力感しかわかず、私にできることなんてないとショックを受けていたのですが、あるとき全然違う問いがバーンと降ってきたんです。電気も水道も整っていないような環境で、裸足で着るものさえ満足にないのに、どうしてこの人たちは笑顔なんだろう。何が彼らを生かしているんだろうって。そしてその答えは、ひとつしかないと思いました。地域の助け合いが、この人たちを笑顔にしているんだって」
対して、京都市内の一軒家で生まれ育った自分は、ご近所さんの名前もほとんど知らない。玄関を開けようとして、誰かが通りを歩いている気配を感じたら、扉の内側で通り過ぎるのをじっと待つような生活だった。
「もしこの村が経済発展したら、今みたいな温かさや助け合いがなくなって、私が育ったようなよそよそしいところになってしまうのかもしれない……。そんな想像をしたら、やばい! と思って。それから旅をやめて、国連に入りたい気持ちもすこーんとどこかに行っちゃって、地元の京都で現代の日本に合った温かいコミュニティをつくろうと思ったんです」
地元に戻って立ち上げたのが、「笑学校(しょうがっこう)」という地域コミュニティ。京都市内の寺や廃校になった学校、あるいは鴨川の河川敷などを教室に見立て、年齢を問わず先生にも生徒にもなれる学校の“校長先生”になったのだ。
「たとえば、紙飛行機について長年研究しているおじいさんが先生になって、めちゃくちゃ飛ぶ紙飛行機のつくり方を教えたり、マイケル・ジャクソンが大好きな小学4年生の男の子がダンス講座をやったり。好きをこじらせてセミプロみたいになっちゃった人を発掘して、声をかけていったんです。学校という名前をつけたのは、教員一家で私自身も先生になりたかったから」
「教育」は藤川さんのライフワークといえるような軸になっていくのだが、その話はまた追って。大学卒業後も企業などに属さず、多世代のコミュニティづくりに奮闘する藤川さんの活動に感銘を受けた人が、遠く山形にいた。
「山形大学の学生だったんですけど、東北の学生50人くらいを集めてソーシャルキャンプをするから、講師として来てほしいってお誘いを受けたんです。そのとき初めて、山形の庄内地方を訪れました」
2泊3日の滞在には、恋愛というおまけもついていた。そこで出会った地元の男性に恋をしてしまったのだ。そして2週間後には移住を決意。3年続けてきた笑学校は、自分がいなくなっても、地域の人たちのつながりがすでにできているから心配ないと思えたのも大きかった。
旅で見たどの土地よりも新鮮だった遊佐町遊佐町で晴れて地域おこし協力隊となった藤川さん。そのミッションは、生涯学習教育の推進だったため、笑学校を遊佐町でも実践しようと考えた。しかし、核家族やひとり暮らし世帯が全国的に増えるなかで、三世代同居率が全国1位を誇る山形県は、人との距離感が違っていた。
「笑学校でやってきたようなことを、遊佐町の各地区のまちづくりセンターなどで、いろんな世代の人が当たり前のようにやっていたんです。地域の祭りや行事もたくさん残っているし、京都で感じたコミュニティの寂しさみたいなのが、ここにはまったくありませんでした。地方移住でよくいわれるような疎外感もまったくなかったし、めっちゃ受け入れてもらえたし(笑)」
その代わりというわけではないが、閉店した店舗をチャレンジショップにするなど、笑学校とは異なるアプローチで地域の活性化を図っていく。プロデュースという意味では、京都でも遊佐でもやっていることはさほど変わらないはずなのに、藤川さんはたしかな手応えを感じるようになっていた。
「京都にいるときは、ソーシャルビジネス界隈の方々のいっていることが、頭では理解できるけど、実感をまったく持てなかったんです。でも遊佐に来て、あのときみなさんが概念として話していたことを、暮らしで実践している人たちがいる! ってようやく感じることができたんですよね。私にとっては途上国に行ったときよりも未知の世界で、新鮮でした」
シチリアの海へ着物でダイブ! そして見えた次の道地域おこし協力隊として3年間の任期が終わる頃、藤川さんは再び岐路に立っていた。京都へ帰るつもりはなかったが、遊佐移住のきっかけになった恋愛もとうに終わっていて、ある意味、どこへでも行ける身軽な状態だった。
「学生時代に旅して大好きになったイタリアのシチリア島で、B級グルメのお店でもやろうと思ったんです。日本食といえばみんな、寿司とかラーメンだと思っているから、ブルーオーシャンだ! と思って(笑)それでリサーチも兼ねて2週間ほどシチリアに滞在していたとき、ある写真家さんと出会ったんです」
その写真家に誘われ、彼が関わっているプロジェクトのエキシビションに足を運ぶ。子どもたちに水の大切さを教えることを目的としたその展示は、子ども向けのいかにも啓蒙的な見せ方とは一線を画し、芸術的な美しさにこだわっていることにカルチャーショックを受ける。そして「シチリアでB級グルメの店を開く」という計画は、またしてもどこかへ行ってしまう。
「そんな私利私欲をいっている場合じゃない! って思いました。環境問題について、これまでも普通の人よりは意識してきたつもりだったんですけど、まだまだ行けるって思ったし、この人から学べるものがある気がしたのです」
海にダイブした被写体を海底から撮るという手法で制作していたその写真家は、展示していた写真を見ながら藤川さんにこう告げた。
「僕の夢は、日本人女性が着物を着て、海にダイブするのを撮ることなんだ」
3か月後、藤川さんは振り袖を着て、真っ青なシチリアの海の前に立っていたーー
意気投合して引き受けたものの、遊佐に戻って着物を入手するのは簡単ではなかった。自費で購入しようと思って呉服店へ行っても、用途を告げた途端、「海水に着物をつけるなんて!」と断られた。困り果てて、まちの運動会の打ち上げの席で相談したのが、同町で呉服店を営む女将さんだった。
「20歳のときにおばあさんから仕立ててもらった大事な振り袖を提供してくださった方です。しかも着付けをするために、イタリアに同行もしてくれて。あとから聞いた話なのですが、女将さんなりに、着物業界に一石を投じたい思いもあったようです。もしも着物を提供したことに対して文句をいわれたら、『あなたは、着物のために本気で何かをしたんですか? っていい返したい』と。そういう強い気持ちで協力してくださいました」
イタリアで着物姿のふたりは、スターのように注目されて質問攻めに。その光景を見た女将は、『50年、着物に携わってきたけれど、こんなに尊敬されるのは初めてだ』と感激。今度は藤川さんが、その言葉に突き動かされてしまう。
「帰国後、女将さんに蔵を見せてもらったら、着物に仕立てられる前の古い反物が、所狭しと納められていました。なかには数十万円の値札がついているものもあって。使い道を尋ねると、女将さんは『今すぐ何かにできる余力はない』というので、『だったら、この反物を私に預けてもらえませんか』とお願いしたんです。それがOrioriの始まりです」
とはいえ、アパレルもデザインも専門外。反物のサイズは基本的に幅約36センチ、長さ12〜14メートルで、洋裁を専門とする人からすると幅の狭さがネックといえる。
「シチリアの有名なアパレルデザイナーに反物を持っていき、リメイクの相談をしたのですが『1メートルの幅でつくってきて!』と突き返されてしまいました。そもそも国産生糸を使って、なおかつ手染めで、昔と同じ条件でつくるのは到底無理なことなので、これ自体が価値なのだと思い、すべて一点ものでやっていこうと決めました」
アイテムは自分たちが身につけたいものから考え、アクセサリーやスカーフ、ボウタイなど小物が中心。一方でヴィンテージとはいえ、材料には事欠かなかった。
奥の「Oriori的SDGsピアス」のデザインは、遊佐高校の生徒によるもの。ブローチもある。
山形県の伝統的な米織(よねおり)の残糸を使ったピアス。
スカーフやボウタイ、ピアスは、オンラインストアで精力的に販売中。
「京都にいる母も応援して、反物を集めてくれましたし、着物の状態だけど託したいという町民の方も結構いらっしゃって。お取引させていただいているのは、庄内をはじめ山形県内の旗本さんや呉服店さんがほとんどですが、昔はみなさん、京都に買い付けに行っていたので、結局、京都の反物が多かったりもするんです」
京都からやってきて長いこと眠っていた反物を、やはり京都から遊佐にやってきた藤川さんが現代のアイテムに蘇らせる。なんともドラマチックな邂逅だ。
大正4年に建てられた民家を改築した、藤川さんの自宅兼事務所。もともとは宿坊だったそう。
好きな人たちに料理を振る舞うことに、喜びを感じる藤川さん。一般家庭とは思えない調理台の広さは、「鮭を丸ごと1匹さばきたいから」
豊かさは永遠には続かない。だから行動するのが郷土愛合同会社Orioriを設立して間もない2019年から、ブランド運営と並行して教育に関する事業にも携わっている。町唯一の公立高校である遊佐高校の定員割れが深刻で、廃校の危機が迫っているため「遊佐高校魅力化プロジェクト」がスタート。地域おこし協力隊として生涯学習に関わってきた藤川さんに、そのプレイヤーになってほしいと町から白羽の矢が立ったのだ。
具体的にどんなことをやっているかというと、「地域みらい留学」という制度を活用して県外からの入学者を募ったり、そのために遊佐高校の魅力を各地でプレゼンテーションしたり、PR動画やウェブサイトのディレクションをしたり、入学を検討している中学生を遊佐に招いて体験プログラムを企画したり……。努力のかいあって廃校の危機を免れ、活動の範囲は年々広がっている。
「このプロジェクトを始めてから、高校生だけでなく、20代の若者も遊佐町にどんどん移住してきてくれたんです。結局、行きたくなる魅力的な高校にするためには、若い人が住みたくなるようなまちにしなければいけないし、もっといえば高校の前の幼保小中とも連携していかなければいけない。高校の魅力化はまだまだ課題がありますが、遊佐に住むことに関しては、もう自信を持って若い子たちに勧められるので、まずはそこを全面的にアピールしています。どんな人生、肩書きでもいいから、とにかく楽しく生きる術を身に着けてほしい。その点、遊佐にはロールモデルといえるような大人がいっぱいいるから、その背中を見て! って」
教育環境を整えることは、突き詰めるほど、まちづくりへとつながっていく。今回、藤川さんを推薦してくれた林篤志さんとも、遊佐町の環境整備のプロジェクトで知り合ったそう。いまや藤川さんの活動は、教育から若者支援、まちづくりと多岐にわたり、2024年10月末には若者を中心としたビジネスの創出支援を目的に、〈一般社団法人 遊ばざるもの学ぶべからず〉を設立。その代表理事に就任し、行政と連携して横断的に地域の課題解決に取り組んでいる。
「最近、教育委員会の方や各課の担当者などと月2回くらい、『遊佐の未来を語る会(仮)』っていうのをやっているんです。まちとしてどういう人を育てたいのか、育った人材がどうしたらこの地域に残ってくれるのか、足湯とかをしながら自由に話し合うんですけど、めっちゃおもしろいですよ」
遊佐が豊かなまちであることは、生まれ育った人も、移住者も重々わかっている。だけどこの豊かさは未来永劫続くものでは当然なく、意識を変える必要があると藤川さんは考えている。
「私と同じように移住してきた、女の子がいっていたのです。『遊佐の小中学校って、自分たちの地域がいかに豊かで恵まれているかを学ぶ授業があって、それ自体はすごく素敵だなって思うけど、幸せボケしそうです。豊かだからもう何もしなくていいや〜って思っちゃいそう』って。本当にその通りで、“いい湯だな”状態に甘えていると、いつかダメになってしまう。遊佐が好きだからこそ、課題意識を持ってあれもしたいこれもしたいって動けるのが、郷土愛だと思うんです」
今後、遊佐で展開したいことのひとつとして注目しているのが、「フェルケホイスコーレ」や「エフタスコーレ」という、人生を学ぶ学校と呼ばれる教育機関。その本場であるデンマークに教育事業を行うチームで視察に行き、自分たちがやってきたこと、そしてこれから目指すべき姿に自信を持つことができたと目を輝かせる。
「デンマークって幸福度が高くて、視察の絶えない国ですけど、遊佐のほうが自然資本的にもめっちゃポテンシャルがあると私は思っていて。遊佐の取り組みが、デンマークみたいに世界的に貢献できて、真似したいと思ってもらえるような未来が見えた気がしたんですよね」
なぜこれほど恐れずに、次から次へと行動できるのだろう。最後に好奇心から質問すると、「よく聞かれるから、自分でも考えてみたんです」と笑いながら答えてくれた。
「海外を旅していたとき、トゥクトゥクから落ちたりして、あ、死んだって思う瞬間が2回くらいあったんです。そのとき、人生って本当にすぐ終わるなって実感して。迷っていて何もやらない時間のほうが、私にとってはリスクというか怖いんです。だから、やりながら、動きながら考えています」
すでに次の夢に向かって、藤川さんは軽やかに、楽しげに、動き出している。
profile
藤川かん奈
1992年京都市生まれ。在学中、電気や水道のない国の村を旅する中で地域コミュニティの大切さに気付き、京都で0歳から100歳が通える地域の学校「笑学校」を創設。その後“先の見えない選択がしたい”と叫び、人口1万3千人の山形県遊佐町(ゆざまち)に移住。地域おこし協力隊として3年間活動し、現在は織に特化したブランドOrioriを運営する合同会社を立ち上げ、県立遊佐高校の魅力化コーディネーター業も行う。
information
Oriori
Web:Oriori
writer profile
Ikuko Hyodo
兵藤育子
ひょうどう・いくこ●山形県酒田市出身、ライター。海外の旅から戻ってくるたびに、日本のよさを実感する今日このごろ。ならばそのよさをもっと突き詰めてみたいと思ったのが、国内に興味を持つようになったきっかけ。年に数回帰郷し、温泉と日本酒にとっぷり浸かって英気を養っています。
photographer profile
Mikako Ito
伊藤美香子
いとう・みかこ●岩手県宮古市生まれ。スタジオ勤務を経て位田明生氏に師事。2007 年、フリーのフォトグラファーとして活動開始。東京を拠点に雑誌・広告などで活動。2018 年秋、結婚を機に山形に移住。東日本大震災をきっかけにワークショップ「しゃしんおえかき」も継続的に開催している。https://www.mikakoito.com/