森の楽しみ方を教えてくれたのは、東京農業大学 地域環境科学部 森林総合科学科 造林学研究室の上原巌先生だ。
私は5年前に、大好きな北海道で暮らしてみたいと、東京から移住した。最初は帯広へ、2年前に道東の弟子屈町へ。
引っ越してきた当初はよく、いまでもときどき「どうしてここを選んだの?」と聞かれる。北海道の179もある市町村のなかから、なぜ弟子屈町を選んだのかと。
その理由は、実は自分でもはっきりとはわからなかった。国立公園の中なので、目障りな人工物が少ないから?そんな風に漠然と感じていた。
阿寒摩周国立公園の中にある「アカエゾマツの森」は、樹齢約200年の天然林。
上原先生と、初めて森を歩いたときのことだった。2時間ほどの散策を終えて、少し離れて森を眺めたとき先生は「自然の相似形ですね」と言った。
森の輪郭は、美しい弧を描いていた。何本もの木々がそれぞれに少しでも太陽の光を浴びようと枝葉を伸ばした結果、左右対称のきれいな半円ができていた。
それは庭師によって手入れされた公園の木々とは異なる、自然がつくり出した造形。私はそこに心地よさを感じて、弟子屈町に惹かれたのではないだろうか。
3月末に完成した『アカエゾマツの森ガイドマップ』は、川湯ビジターセンターで配布している。
上原先生は、森や木に対してさまざまな手段でアプローチする。木の名前と特徴を知るだけではない、新しい楽しみ方の数々。
川湯ビジターセンターとアカエゾマツの森を訪ねる人に向けてもそれらを紹介できるように、『アカエゾマツの森ガイドマップ』を作成した。
A3サイズを小さく畳んだ、手のひらに収まる地図。表には、以下の「五感を働かせて森を楽しむ10の方法」が。
A.森全体の香りを味わうB.樹木の並び方を観察するC.樹皮に触れるD.葉に触れて匂いを嗅ぐE.森のライフサイクルを知るF.足の裏で森を感じるG.樹冠を眺めてわかることH.風がつくる光の効果I.森の音を聞くJ.心地いい「空間」を探す
裏には、約0.8キロのゴゼンタチバナコースと約2.2キロのアカゲラコースを、ここで観察できる動植物の写真と一緒に載せている。
裏面は、森のコース紹介。「五感を働かせて楽しむ方法」を実践できる場所を、A〜Iの記号で記している。
五感を働かせて森を楽しむ方法とは?森に入ったら、まずは大きく深呼吸。嗅覚のスイッチを入れ、この森はどんな香りがするのだろうと、ゆっくり感じ取る。
アカエゾマツの森は、入り口からすぐに稚樹(アカエゾマツの赤ちゃん)が並んでいるので、葉っぱを触ってみるといい。甘くてやさしい森の匂いがする日もあれば、あまり感じない日や、少しツンと酸っぱい香りのときもある。
左はアカエゾマツの葉、右はドドマツの葉。形状だけでなく、感触や香りでも違いがわかる。
アカエゾマツの森の中には、知っているだけでも十数種類の鳥が棲んでいる。アカゲラ、ヒヨドリ、ゴジュウカラ……いろんな鳴き声が聞こえておもしろい。耳を澄ませば、風の音、葉の擦れる音、エゾリスが走り回る音、木がミシミシと動く音まで。自然の音は多種多様。
雪解け直後の森の道は、昨秋の落ち葉と松ぼっくりで埋め尽くされている。
足の裏に意識を向ければ、アスファルトの上はまったく感触が違うことに気づく。長い年月をかけて落ち葉が積もった森の地面は、空気をたくさん含んでいて、柔らかくて、ふかふかで、とても気持ちいい。
大きな木のそばに行ったなら、眺めるだけでなく木肌を触ってみよう。アカエゾマツの樹皮はウロコのようにガサガサとしていて、その下には名前の由来である“赤い肌”が隠れている。
触ると剥がれてしまいそうな樹皮がアカエゾマツの特徴。その模様や色合いも個性的で美しい。
手のひらで触れて温もりを感じ、その木が気に入ったなら、両手で抱えてみるのもいい。そのまま見上げたら、空の近く、ずっと高い位置から見守られているような気がして包み込まれるような安心感を味わうことができる。
さまざまな自然の恵みを感じてアカエゾマツの純林は、ランダムに並んでいるからこそ心地いい。
上原先生は昨年夏、アカエゾマツの森で実施した森林講座で参加者に向けて「この森からどんな印象を受けますか?」と質問した。真っ直ぐに伸びた、樹高20メートルはあるアカエゾマツが森の奥まで続いている風景。
「深い」「奥行きがある」「『千と千尋の神隠し』の世界みたい」etc.たくさんの感想が出たあとで「ここは天然林。人の手によって整然と植えられた人工林とは違って、自然のリズムを持って並んでいる。だからずっと眺めていても飽きないんですよ」と魅力を語った。
葉っぱの量、枝の向き……樹冠を観察することで、わかってくることもある。
印象的だったのは、樹冠(木の上部)の話。森の中で空を見上げると枝葉が、空の色を背景にしてとてもグラフィカル。さらには、360度全方位に枝を伸ばしている木と、それに遠慮しながら伸びている木があることに気づく。先生は「人間社会と同じ。木だって気を遣っているんです」と教えてくれた。
木は生きているのだと、改めて実感。
もうひとつ。先生は森に入る前に「気に入った場所があったら教えてください」と参加者に声をかける。広葉樹に囲まれた明るい空間を好む人もいれば深い森の秘密基地のような場所が落ち着くという人もいるそうだ。
「その日の気分によっても、居心地のいい場所は変わります」と先生が語るように森は私たちに、心理状態も気づかせてくれるのだ。
4月に入り、アカエゾマツの森では雪が解け、木々の新しいサイクルが始まっている。これから芽が出て花が咲き、新鮮な香りが漂い、日々変化していくなかにどれほどの発見が待っていることだろう。
私の「森とともにある生活」は、始まったばかりだ。
profile
Iwao Uehara 上原 巌
うえはら・いわお●東京農業大学 地域環境科学部 森林総合科学科 教授、日本森林保健学会 理事長。造林学や森林療法をテーマに、国内外で活躍。近著『自然の中の数学』(東京農業大学出版会)、『まんまるつんつん木のカタチ』(農山漁村文化協会)、『造林学ワークブック 森林科学の学び方』(理工図書)をはじめ、森林の世界にぐんぐん引き込んでくれる著書多数。ほぼ毎日更新されるブログも必見!
上原巌のブログ(photo:鑓野目純基)
information
川湯ビジターセンター
住所:北海道川上郡弟子屈町川湯温泉2-2-6
TEL:015-483-4100
営業時間:9:00〜16:00(11月〜3月)、8:00〜17:00(4月〜10月)
休館日:水曜(7月第3週〜8月31日は無休、水曜祝日の場合は翌日)、年末年始(12月29日〜1月3日)
Web:川湯ビジターセンター
writer profile
Chigusa Ide
井出千種
いで・ちぐさ●弟子屈町地域おこし協力隊。神奈川県出身。女性ファッション誌の編集歴、約30年。2018年に念願の北海道移住を実現。帯広市の印刷会社で雑誌編集を経験したのち、2021年に弟子屈町へ。現在は、アカエゾマツの森に囲まれた〈川湯ビジターセンター〉に勤務しながら、森の恵みを追究中。