志賀直哉の短編『城の崎にて』をはじめ、多くの文人墨客が足を運んだ兵庫県豊岡市の温泉街、城崎温泉。羽田空港から伊丹空港経由の飛行機で約2時間。
柳並木が続き、まちの中心をながれる大谿川(おおたにがわ)沿いには、木造3階建の旅館が軒を連ねる。そんな温泉街で下駄をカランコロンとならし、浴衣姿でそぞろ歩きながら7つの外湯を巡るのも城崎温泉を楽しむ醍醐味だ。(写真提供:山本屋)
約80軒の旅館がある城崎温泉では、“駅が玄関、通りが廊下、旅館が客室、外湯が大浴場、商店が売店。城崎に住む者は、皆同じ旅館の従業員である”という。まち全体でひとつの旅館としておもてなしする「共存共栄」の精神が自然と根づき、開湯1300年の歴史を積み重ね、関西屈指の温泉街を支えてきた。
温泉と文学。伝統を継承しながら変革を関西に住む人にとっては毎年11月になったら解禁となる松葉蟹の城崎温泉、というのが広く浸透してきた。2013年の志賀直哉来湯100年を機に、城崎の文化価値をもう一度見つめ直し、これからの100年を見据えた本づくりをすすめる〈本と温泉〉プロジェクトが城崎温泉旅館経営研究会(若旦那)によって立ち上がった。
そのきっかけについて、志賀直哉が泊まっていた宿としても知られる〈三木屋〉の10代目当主であり、NPO法人〈本と温泉〉副理事長を務める片岡大介さんは当時をこう振り返る。
片岡さんは大学進学を機に京都へ。ホテル勤務を経て地元である城崎に戻り、2011年から〈三木屋〉の10代目を務めている。
「志賀直哉が初めて城崎を訪れたのが1913年。そこから100周年を迎えたタイミングで、旅館経営に関わる若旦那衆(通称2世会)を集めた〈城崎温泉旅館経営研究会〉を中心に、もう一度“文学のまち、城崎温泉”を復活させようと、ユニークな本をつくるプロジェクトが動き始めました」
創業300年以上の〈三木屋〉は国の登録有形文化財にも指定され、木造建築の随所に歴史の趣が感じられる。(写真提供:三木屋)
「宿のなかで完結するのではなく、お客さまがまち全体を巡る“ひとつの旅館”としての考えを、それぞれの旅館が長年貫き、守ってきました。城崎温泉が“文学のまち”として浸透し、みんなが一団となり取り組んできたことが今につながっているのだと思います」と片岡さん。
老朽化のため、2013年より段階的に改修を進め、2022年にはかつて皇族を迎えた特別室「22号室」をリニューアル。最も広い面積をもつ特別室は、もともと2部屋の和室を和洋折衷の新しい客室として更新された。(写真提供:三木屋)
2015年7月にリニューアルした「つつじの湯」。城崎温泉では、戦後から内湯の大きさを旅館の規模に応じて制限しているそう。各旅館でも、まちの外湯を楽しんでもらえるよう案内している。(写真提供:三木屋)
information
三木屋
住所:兵庫県豊岡市城崎町湯島487
TEL:0796-32-2031(8:00〜20:00)
宿泊料金:「22号室」5万5000円〜/大人2名1泊(定員:2〜5名)
※宿泊料金はシーズン・人数により変動します。
Web:三木屋
本格的に〈本と温泉〉プロジェクトを始動するにあたって、城崎温泉と文学を大きく結びつけてくれたのは、〈城崎国際アートセンター〉の館長を務めた田口幹也さんとの出会いだったという。
2015年から6年間〈城崎国際アートセンター(KIAC)〉の館長を務めた田口幹也さん。
豊岡市にUターンした田口さんが、ブックディレクターの幅允孝さんを紹介してくれたことから、幅さんが運営している〈BACH(バッハ)〉と城崎のまちから生まれる新たな物語をつくろうと、共同でプロジェクトがスタート。
「この取り組みの特徴は城崎のまちでしか買えないところです。全国流通させるのでなく、城崎温泉の旅館やお土産屋、外湯のみで販売する“地産地読”にこだわり、温泉街だからこそ味わえる読書体験を提案しようと始めた試みです」と田口さんは話す。
1996年に開館した〈城崎文芸館 KINOBUN〉。オープンから20周年を迎えた2016年秋には展示内容を大幅にリニューアル。城崎を訪ねる旅人や地元の方に、より深く愉しく文学に親しんでもらえる施設へと生まれ変わった。(写真提供:城崎文芸館)
これまでに万城目学さんや湊かなえさんといった人気作家が書き下ろし、城崎を舞台とした短編小説を生み出している。外湯に浸かりながら読書を楽しんでほしいという思いから、発売した本はすべて城崎温泉だけの地域限定販売に。もちろん城崎文芸館でも購入可能だ。2014年発売の万城目学『城崎裁判』は発行部数2万部を突破。(写真提供:城崎文芸館)
information
城崎文芸館 KINOBUN
住所:兵庫県豊岡市城崎町湯島357-1
TEL:0796-32-2575
開館時間:9:00〜17:00
休館日:水曜、年末年始
Web:城崎文芸館 KINOBUN
関西では有名な温泉街ではあったが、関東圏、在京メディアでの露出は少なかったため、豊岡市は、情報戦略の柱(大交流)に東京への情報発信を掲げていた。豊岡の魅力を在京メディアに知っていただく「豊岡エキシビション」を2010年から実施。2013年からは田口さんも担当し、豊岡の知名度を高めていった。
その発展のきっかけともいえる〈本と温泉〉プロジェクトや、〈城崎文芸館 KINOBUN〉のリニューアルなど、豊岡市のPRに関わってきた田口さんは同市日高町出身。東京で飲食店の経営やメディアの立ち上げなどに約20年間携わったのち、東日本大震災を機に豊岡にUターンし、その後城崎への移住を決心したそう。
「移住してから東京から知り合いが遊びに来てくれる機会が増えて。案内しているうちにまちの魅力と課題を改めて実感しました。そこから自分で勝手につくった“おせっかい”名刺をもち、このまちの良さをうまく引き出してくれるクリエイターとのコラボレーションなどを、豊岡市に提案しているうちに、少しずつPR活動をお手伝いさせてもらうようになりました」
その縁もあり、2015年から世界でも非常に珍しい舞台芸術に特化したアーティスト・イン・レジデンス〈城崎国際アートセンター(KIAC)〉の館長に就任することに。
稽古場からワーケーションまで。多様な価値観を生む創作拠点これまで国内外のアーティストが訪れ、滞在しながら創作や稽古をするアーティスト・イン・レジデンス〈城崎国際アートセンター(KIAC)〉は、2014年にリニューアルオープン。(写真提供:KIAC (c) Madoka Nishiyama)
さまざまな国や地域のアーティストが集まり、日常とは異なる環境、文化的バックグラウンドを持った人々との交流から、芸術創造的のインスピレーションを得ながら創作に集中することができる。城崎に暮らすように滞在し、公開稽古や試演会などを通して市民に作品を見せる機会を設けるなど、地域交流プログラムも充実。
ホールや6つのスタジオ、最大22名が宿泊可能なレジデンスやキッチンで構成される。滞在アーティストからは、くらしの延長線上に舞台があるので、モチベーションを維持したまま創作活動に向き合えるとの声も。
2022年4月には同施設のエントランスホールには、テレワーク拠点となるスペース〈WORKATION IN TOYOOKA @KIAC(通称WIT)〉を新たに設置。
information
城崎国際アートセンター(KIAC)
住所:兵庫県豊岡市城崎町湯島1062
TEL:0796-32-3888
開館時間:9:00〜22:00(WITは9:00〜17:00)
※最新情報はホームページをご確認ください。
休館日:火曜
Web:城崎国際アートセンター
城崎温泉では“泊まる”“食べる”“買う”に、新たに“働く”という機能が加わり、コロナ禍の影響から、ワーケーションとしての利用者も少しずつ増えつつある。2021年11月にオープンした〈短編喫茶Un(あん)〉もそのひとつだ。
3000冊という世界一多くの短編小説が取り揃えられたブックストア、カフェとセレクトショップを併設。(写真提供:短編喫茶Un)
「小さな物語の専門店」がコンセプトのブックストアでは、独自セレクトしたエッセイや詩、散文、和歌、俳句、絵本や写真集、アート、4コマ漫画など、多彩なジャンルの小さな物語が全て読み放題。(写真提供:短編喫茶Un)
独自セレクトした本棚には「5分で読める本」や「30分で読める本」「1時間で読める本」「一生かけて読む本」と時間別でわかりやすく分類された企画棚も。城崎での散策や仕事の合間にも、気軽に文学に触れ合える。
information
短編喫茶Un
住所:兵庫県豊岡市城崎町湯島127
TEL:0796-32-4677
営業時間:10:00〜17:00
※最新情報はホームページをご確認ください。
定休日:木曜
Web:短編喫茶Un
1710年創業の老舗旅館〈小林屋〉は、1925年の北但大震災後に再建。木造3階建て、ベンガラ塗装を施した耐風板壁をもつ建造物として、2015年に国の登録有形文化財に認定された。(写真提供:小林屋)
6代目の井上吉右衛門(19代城崎町長)は、震災後の1932年に大谷橋〜王橋間に、柳を30本植樹し、現在の柳並木の景観を築いた立役者でもある。(写真提供:小林屋)
「2021年に約100年ぶりとなる大規模改修を行ったのですが、当初は老朽化した建物の修復をメインに考えていました。2020年4月末から5月までの約1か月間、城崎の旅館は休業し、外湯の入場制限も設けていました。いろいろなタイミングが重なり、構造や素材など、歴史的意匠を生かしつつ、現代的な快適さとデザイン性を兼ね備えた、大胆なイメージの刷新を狙ったリノベーションプロジェクトに発展しました」
11代目を務めながら現代美術家として活動を行う永本さん。北米を拠点に数々の展覧会やプロジェクトにも携わっている。
そう話すのは若旦那の永本冬森(ともり)さん。城崎を訪れたきっかけは、カナダのトロント時代の友人がかつて働いていた老舗旅館を紹介してくれたことだったという。そこから城崎に通うようになり、2021年から奥さまの実家である〈小林屋〉の代表取締役に就任することに。
約40畳の大宴会場を解体し、2022年リニューアルの最上階スイートルーム「吉右衛門」に。設計監修は〈SUPPOSE DESIGN OFFICE(谷尻誠・吉田愛)〉が担当。歴史と趣を残し、シンプルでありながらも陰影礼賛を感じられる“現代の湯宿”を体現する空間に。(写真提供:小林屋)
お茶の間スペースに吊り上げられた巨大な水府提灯は、約400年の歴史をもつ、茨城県に伝わる伝統的な提灯づくりの技法を、島根の石州和紙を使用して制作したもの。歴史を大切にしながらアップデートし、日本の伝統工芸を宿全体に取り入れる。現代美術家としても日本の美を探求してきた、永本さんのこだわりが随所に詰まっている。
幅充孝によって選書された55冊の本が並び、リラックスした湯上がりにも読書を楽しめる。
information
小林屋
住所:兵庫県豊岡市城崎町湯島369
TEL:0796-32-2424
宿泊料金:「吉右衛門」スイート8万円〜/大人1名1泊(定員:2〜6名)
※宿泊料金はシーズン・人数により変動します。
Web:小林屋
城崎温泉を中心に豊岡市では、この土地に訪れる人々がまちに共感し、愛着を抱き、何度も訪れ、長期滞在してもらう「コミュニティツーリズム」を実践してきた。
2021年には豊岡市で初の4年生大学〈県立芸術文化観光専門職大学〉ができ、「芸術文化と観光」を架橋した学びのなかで、地域の新たな活力を創出する専門人材育成にもますます力を入れている。“共存共栄”の精神で地域が一体となって目指してきた「小さな世界都市」をヴィジョンに価値の再創造、文学や芸術によるまちづくりを着実に進める、城崎温泉の独創的な今後の取り組みにも注目だ。
*価格はすべて税込です。
photographer profile
Mitsuyuki Nakajima
中島光行
なかじま・みつゆき●写真家1969年、京都生まれ。京都在住。京都をメインに国内外問わず、風景や暮らし、寺院や職人など、そのなかに存在する美しさを抽出することに力を注ぐ。博物館、美術館の所蔵作品、寺社の宝物、建築、庭園などを撮影。そのなかには数多くの国宝や重要文化財も含まれる。そのほかに、雑誌、書籍、広告など幅広く活動中。(公)日本写真家協会会員 「三度目の京都」プロジェクト発起人。