最近の私の仕事は、朝の収穫から始まる。庭にあるアカエゾマツの枝葉を数本伐って、袋に入れて、いざ出勤。車の中には森の香りが漂って、極寒の朝もとてもいい気分だ。
引っ越したときは気づいていなかったけど……庭にアカエゾマツの木があった。ラッキー!
北海道の右側、「ひがし北海道」と呼ばれるエリアには、国立公園が3つある。知床国立公園、釧路湿原国立公園、阿寒摩周国立公園。そしてこれらの中には、各地の自然情報を展示・解説するビジターセンターが10か所もある。
私が勤務しているのは、そのうちのひとつ〈川湯ビジターセンター〉。阿寒摩周国立公園の半分、摩周・屈斜路エリアを紹介する施設である。
弟子屈町川湯温泉にある〈川湯ビジターセンター(旧・川湯エコミュージアムセンター)〉。
アカエゾマツの天然林に抱かれるようにして建っている、面積500平方メートルを超える大きな館。
いまから10年以上前、まだ東京に住んでいた頃、北海道旅行の途中で偶然立ち寄った記憶がある。
森の中にポツンとあるロケーションに惹かれて「こんな場所で働いてみたいなぁ」とぼんやり感じたことを覚えている。気がつけば実現していたなんて、なんだか不思議だ。
自然の中に入る前に、立ち寄って欲しい場所館内のジオラマ。上が屈斜路湖、下が摩周湖。
ガラスの扉を入ると、まず目に飛び込んでくるのが、阿寒摩周国立公園のジオラマ。いまから約3万年前に日本最大の屈斜路カルデラができ、その後、屈斜路湖が誕生。そして約4千年前の噴火で、摩周湖ができた。そんな歴史がわかりやすくなる。
自然解説員が、「屈斜路湖には東京23区がすっぽり入るんですよ」と話すと、来館者は感嘆の声をあげて、火山と森と湖からなるこの地の雄大さをイメージしてくれる。
館内の人気者(?)、ヒグマの剥製。この前で記念撮影をする人も多い。
ヒグマ目撃情報を掲示している。赤いヒグマのシールは、今年の出没箇所。日付入り。
ジオラマ同様に、入り口で来館者を引きつけるのが、ヒグマの剥製。展示されているのは、推定年齢2〜3歳の若いヒグマで、足の裏の横幅は約12センチもある。さらにその隣には、近隣のヒグマ目撃情報が記されているので、散策や登山を目的に訪ねてきた人は、しばし釘付けになるのだ。
展示は散策路で出合う順番に、アカエゾマツ、イソツツジ、ハイマツ、硫黄山と続く。
屈斜路湖、摩周湖と並んで、このエリアで有名なのがいまなお噴煙を上げる活火山、硫黄山。川湯ビジターセンターから麓までは片道約1時間の散策路になっていて、ここが我がビジターセンターが最も自慢したい場所。
館内を出ると、アカエゾマツの森を抜け、広葉樹の林を経て、本来は高山帯にしか生育しない植物、ハイマツの群生地へ。火山の影響を受ける土壌は植物にとっては過酷でそれゆえダイナミックに植生が変化し、1時間歩くだけで、森の成り立ちを逆戻りしているような体験ができるのだ。館内には、そんな魅力をギュッと凝縮して展示してある。
木をふんだんに使った館内。2階にはカフェもあり、アカエゾマツを眺めながらコーヒーが飲める。
大きな窓と高い天井が印象的な館内は、北海道らしく広々とした、とても心地いい空間。
建物が完成したのは、1999年。いまから20年以上も前のことになる。オープン時の名称は、〈川湯エコミュージアムセンター〉だった。当時のスタッフは、「その頃はフランスのエコミュゼの影響を受けて全国でエコミュージアムセンターが流行っていたんです。自然全体をミュージアムと捉えて、そのセンターである場所で情報を得て、自然の中に出かけていく。だから常設の展示だけでなく、『いまこんな花が咲いています』とか『ハクチョウがやってきました』とか、最新の情報発信も大切にしていました」と教えてくれた。
老若男女問わず人気が高いのが、このエリアで撮影された野生動物の写真。
そして町民と一緒に近くの山に登ったり、野鳥を観察に行ったり、自然とふれあうためのイベントをたくさん企画したという。
当時は環境教育が盛んで、弟子屈町もここを拠点にしようと考えていたようだ。
いまでも地元の小中学生にとって、川湯ビジターセンターは自然学習のスタート地点。授業の一環として、毎年何度となくやって来る場所。
自然解説員がジオラマを指して、「ここ、なんだ?」と訊くと、みんなで「屈斜路カルデラ!」と声を揃える。「カルデラ」を知っている小学生なんてなかなかいないよ、と私はいつも感心してしまう。
眺めるだけでなく、五感を働かせて森林を楽しむ道産カラマツを使ったカウンターは、〈東京ガスコミュニケーションズ〉の〈CARBON STOCK FURNITURE〉。
今年の4月、館内が少しリニューアルして、カラマツを使ったカウンターが設置された。以来、来館者は、「木のいい香りがするね〜」と喜んでくれる。そして12月1日、小さなショップが始まった。テーマのひとつにしたのが、アカエゾマツの蒸留。
川湯ビジターセンターの裏に広がる「アカエゾマツの自然散策路」を歩いてもらう前に、北海道を代表するこの樹種に、少しでも関心を持ってもらえるように。
蒸留するために、庭から採ってきたアカエゾマツを小さく刻む。このときの香りがたまらない!
蒸留するために、庭から採ってきたアカエゾマツを小さく刻む。このときの香りがたまらない!
とはいえここは、国立公園内。葉っぱ1枚、石ころひとつ、持ち帰ることは許されない。アカエゾマツの枝葉など、もってのほかだ。
そこで私は、毎朝家の庭でアカエゾマツを収穫。職場に着くと、まずはチョキチョキと刻んで、家庭用の水蒸気蒸留器を使って、アロマウォーターづくりに励んでいる。
IHヒーター&氷を使った簡易式の蒸留器は、〈桐山製作所〉の〈アロマ水蒸気蒸留器 RA-015〉。
実際に蒸留する様子を見てもらったり、毎日少しずつ採取するアロマウォーターを日付順に並べてその違いを感じてもらったり。
アカエゾマツだけでなくトドマツも入れて道内で針葉樹の蒸留をしている生産者の商品も並べることにした。
「日本一寒い」がキャッチフレーズの陸別町、道北の下川町、西側のニセコ町、海沿いの浜中町、etc.
生産者それぞれの個性を感じる、道内各地から集めた針葉樹の精油や蒸留水。
採れ立てのアカエゾマツの香りを嗅いだり、道内各地の香りを比べてみたり。
道外のお客さんは「うわぁ、こんな匂いなんだ」と驚くけど、道内から来た人は「あ、森の匂いだわ」とか「あ、松ヤニだね」とか。北海道は、やっぱり自然が身近なんだと実感させられることも多い。
つい先日は、町内で柑橘系の栽培にチャレンジしている知人がレモンの枝葉と実を持ってきたので、蒸留してみた。これは爽やか。庭にはトドマツもあるので、いずれはそれもチョキチョキと。春になったら、キタコブシの蕾やヤマザクラの葉にもチャレンジしてみよう。
そして自然の香りは、私たちにどんな効果をもたらしてくれるのか?ここを訪ねてくれる人の声を聞きながら、その答えを探していきたい。
information
川湯ビジターセンター
住所:北海道川上郡弟子屈町川湯温泉2-2-6
TEL:015-483-4100
営業時間:9:00〜16:00(11月〜3月)、8:00〜17:00(4月〜10月)
休館日:水曜(7月第3週〜8月31日は無休、水曜祝日の場合は翌日)、年末年始(12月29日〜1月3日)
Web:川湯ビジターセンター
writer profile
Chigusa Ide
井出千種
いで・ちぐさ●弟子屈町地域おこし協力隊。神奈川県出身。女性ファッション誌の編集歴、約30年。2018年に念願の北海道移住を実現。帯広市の印刷会社で雑誌編集を経験したのち、2021年に弟子屈町へ。現在は、アカエゾマツの森に囲まれた〈川湯ビジターセンター〉に勤務しながら、森の恵みを追究中。