下田に移住して5年が経った津留崎家。それでも「下田で暮らしていくのか」と徹花さんが実感したのはごく最近だといいます。
移住以来、東京に戻るべきか否か、という悩みを持っていましたが、周囲のライフステージが変わったことによって、徹花さんの気持ちにも変化があったようです。
2017年に下田に移住してから、丸5年が経ちました。最近になってようやく、下田に住むということが実感としてわいてきています。「え?? 今ごろ??」と友人たちにもこの連載を読んでくださっている方にも驚かれるかもしれません。けれど、正直なところこれまでの5年間、東京に戻ろうと考えたことが何度もあったのです。
そもそも私たち家族が地方への移住を考えたのは、2011年に起きた東日本大震災がひとつのきっかけでした。当時わが家は、東京の私の実家で母と姉家族と同居していました。震災の影響でスーパーの棚は空っぽになり、それでも自分たちにはなすすべがない。
今まで食べていたものや電力などのライフラインのすべてを、誰かに頼って暮らしているということにそのとき初めて気づいたのです。そうした暮らしへの違和感を少しずつ感じ始め、よし、自分たちで米をつくれるような場所に移住してみよう! となったのです。
今年で5年目となる下田での米づくり。娘も慣れた手つきで稲刈りをしてくれます。手伝ってくれる友人も年々増え続け、今ではこの米づくりが欠かすことのできない楽しいイベントになりました。
震災のことだけではなく、私はもともと地方で暮らすことへの憧れがありました。取材で訪れた山間の地域には、昔ながらの知恵のある暮らしをいまでも繋いでいる方々がいて、お金をかけずとも豊かな暮らしをしている。そうした生き方に魅了されていました。いつか自分も地方で、そんな暮らしをしてみたいと考えていたのです。
コロカルで「美味しいアルバム」という連載を書いていました。地方に住むいろんな方々を取材して、暮らしの知恵、生き方の知恵をうかがっていました。この連載、自分でいうのもなんですが、とてもよい内容です! 読んでいただけたらうれしいです。
そんなきっかけから地方への移住、下田への移住をすることになったのですが、なぜ東京に戻りたいと思ったのか。その理由のひとつが娘のこと、そしてもうひとつが東京の実家で暮らしている母のことでした。
三重県の山深い地域に移住することを決め、一度は引っ越しをしたのですが……。(詳しくはこの連載のvol.10前後に書いています)
娘はいま小学5年生になりますが、下田に移住したのは幼稚園の年長のときです。一度は三重県への移住を考えトライしたもののうまくいかず断念。三重への移住がうまくいかなかった理由は、娘がそれまで東京で同居していた従兄弟たちと離れることの寂しさからでした。生まれてからずっと一緒だった従兄弟たちとの別離、今までとはまったく違う環境への不安。
そうして東京に一度戻り、東京と行き来しやすい場所でもう一度だけトライしてみようと決めたのが下田でした。下田に移住してからも、実は何度か東京に戻りたいと娘が私に言ってきたことがありました。その度に私の気持ちはとても揺れました。
この子にとって、何を優先したらいいのか。安心できる環境にすぐ戻すべきではないか。幾度となく夫と話し合い、東京の実家に毎週末連れて行きながら様子を見てきました。何度も迷いながら、不安になりながら、この5年間を下田で過ごしてきたのです。
幼稚園のときに出会った友だち。同じ小学校に通っていて、娘が自然体でいられる親友です。
娘は来年、小学6年生になります。このまま下田の中学校に進学することもできますが、もし娘がのぞむなら進学のタイミングで東京の実家に戻るのもありなのではないかと私は考えていました。今年の夏には、娘と一緒に東京の中学校の見学にも行きました。両方の選択肢を与えたなかで、最終的に本人に選ばせようと考えていたのです。
そうして本人が選択したのは、下田の学校でした。理由は? と聞くと、小学校の友だちと離れたくないのだそう。東京の学校に行けば新しい友だちもたくさんできるし、実家にまた住むことができるよ? と私が伝えると、「いいの、下田がいいの」と。
そして、今までは私の東京出張に同行したがっていた娘でしたが、最近では夫と一緒に下田に残ることを選びます。自分の部屋で絵を描くのが好きだったり、大好きな飼い猫がいたり。下田での暮らしは、今となっては居心地がよいようです。
下田に移住してから猫を飼い始めました。それがきっかけで猛烈な猫好きになり、気づくと猫の絵を描いているほどです。LINEスタンプをつくってみようよ! と描いた猫たち。
下田にはいろんな動物を飼っている友人がいます。娘は動物が大好きで、友人宅にあそびにいくと率先して動物に触れ合います。ヤギを散歩中。
もし下田に移住しなかったら? 東京に戻りたいと言われたタイミングで戻っていたら? と、今でも考えることがあります。もちろん、下田に移住したから得られたこともたくさんあるのですが、いとこたちと離れて寂しい思いを抱えさせたことは事実です。あのときの娘の叫びに応えてあげられなかった自分を責める気持ちも、どうしても残ってしまいます。
そのうえで、下田の暮らしを前向きに楽しもうとしている娘を見守りたいと思っています。娘が自ら下田での暮らしを選択したのだから、私も過去にとらわれずに前を向かなくては、と自分に言い聞かせています。そうやってようやく、少しずつ着地できるのかもしれません。
こちらも友人が飼っている鴨。うれしそうな表情を浮かべる娘「ふわふわでかわいい〜」だそうです。
私が東京に後ろ髪を引かれていたもうひとつの理由は、実家にいる母のことでした。高齢の母と、あとどれくらい過ごすことができるのだろうか。同居している姉にばかり母のことを任せてしまっていていいのだろうか。そうした思いがつのるたびに、東京に戻った方がよいのではないかと心が揺れていたのです。
その母が今年の夏に骨折をし、それをきっかけに施設に入所することになりました。そんなことになるなんて、今までまったく想像できていませんでした。想像力にかけていたのです。
一緒に住むという選択肢は、ある日を境に突然なくなりました。あのとき東京に戻っていたら……、と思うこともやはりあるのですが、ありがたいことにまだ母は元気でいます。基本的には施設で生活するのですが、月に数回は東京の自宅で過ごすことになりました。その日は私も東京に通って、母と一緒に過ごします。
今でも時折、娘を東京に連れていきます。文房具好きの娘は銀座の〈伊東屋〉が大のお気に入り。都市部や地方に限らず、いろいろなものを見て感じてほしい。
娘の変化や母のこともあり、東京に戻ったほうがよいのでは? という迷いがなくなりました。そして最近、下田で暮らすことの素晴らしさを改めて感じています。たとえば匂い。3、4年前のことになりますが、撮影でご一緒した料理家の先生がこんなことを話してくれました。
「下田に移住したことは娘さんにとって絶対にいいことだよ。東京では感じられないことをたくさん感じられる。匂いだって都会とは全然違うでしょ」と。
その当時は下田の匂い? と、あまりピンときていなかったのですが、最近は先生の言葉がとてもよく理解できます。娘に、東京と下田って匂いが違う? と聞いたことがあります。東京は何かわからない匂いが混じっているそうで、下田は海と山のいい匂いだそう。朝、玄関をパッと開けて外に出ると思わず「いい匂い〜」と言葉がもれます。
そうして深呼吸、土の匂い、海の匂い、植物の強い匂いが身体に染みていくのです。私にエールを送ってくれた料理家の先生は、その数年後に長野の森の中に第2の拠点を構えました。海の匂いをかぎながら、時折、先生の言葉を思い出します。
朝起きると娘が「みてみて!」と。2階の窓からみえる朝焼けは、本当に美しいものです。
そしてもうひとつ、下田って本当にいいよ〜と思うこと。度々この連載でもお伝えしていますが、本当にいろんな方が畑に呼んでくれてお野菜をくださるのです。私はいま48歳になるのですが、正直なところ体も心も不調になるときがあります。浄化したい、軽くなりたいというとき、東京に住んでいた頃は友人と飲みに行ったり健康ランドに行ったりしていました。
下田でも温泉に出かけたり飲みに行ったりもちろんするのですが、それに加え、知り合いの畑にふらりと寄らせてもらうのです。笑顔で出迎えてもらい、ピカピカのお野菜を一緒に収穫してなんてことない話のやりとりをすると、そのうちにすっと軽くなります。
先日、友人から「大根いる?」との連絡が。一家総出で畑にうかがい、大根をたくさん抜かせていただきました。こうした時間がとても楽しくてありがたい。
義母も一緒に畑におじゃましました。水路で大根を洗う娘と義母。
私も夫も今年で48歳、もうすぐ50歳です。下田の知り合いのご夫婦のように、友人たちと田んぼや畑でお茶をしたりして楽しむ。いつかはそんな暮らし方もいいな〜と思ったりもします。自分がこれからの人生で何をしたいのか、どんなことが心地よくて、何を優先したいのか。じっくり考えよう思います。
毎年仕込んでいるたくあん。今年はいただいた大根でつけました。数日間、天日干しにするのですが、猫が傍らで気持ち良さそうに寝転がっており、なんとも平和な風景がひろがっています。
いろんな方にお野菜をいただき、こんな贅沢なことに。あぁ、幸せ。
文 津留崎徹花
この連載「暮らしを考える旅 わが家の移住について」の記事一覧
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text & photograph
Tetsuka Tsurusaki
津留崎徹花
つるさき・てつか●フォトグラファー。東京生まれ。料理・人物写真を中心に活動。移住先を探した末、伊豆下田で家族3人で暮らし始める。自身のコロカルでの連載『美味しいアルバム』では執筆も担当。