その地域に住んでいると気づかない、灯台下暗しな地元の魅力がある。そんな地域の魅力を再発見し、全国へ届けているのが、民宿〈おくだ荘〉を営む弓削さん一家だ。
舞台となるのは、静岡県沼津市井田。「井田ブルー」と名づけられた透き通る青色が美しい海水浴場がある、山と海に囲まれた西伊豆の地だ。
(写真提供:おくだ荘)
この井田の海水に着目し製塩業を始めたのは、民宿〈おくだ荘〉の初代・三樹夫さん。4年半前に三樹夫さんが他界してからは、娘の美幸さんとその夫の豊さん夫婦を中心に、3人のお子さんとの分業体制で事業を拡大している。
この日は美幸さんと豊さん、次男の直豊さんの3人にお話をうかがった。
写真左から、美幸さん、直豊さん、豊さん。
民宿が塩をつくり始めた理由おくだ荘の民宿経営が始まったのは、今から50年ほど前の1973年。民宿の営業と並行して製塩業をはじめたのが、今から17年ほど前だ。
製塩業は、“約1500年前に井田で塩をつくっていた”という文献を見つけたことをきっかけに、村おこしの一環としてスタートした。
最初はひとつの釜からはじまって、すぐ生産が間に合わなくなってふたつに。経営が軌道に乗りはじめた頃、知り合いの土産店から発注を受け、専売で塩を卸した。
製塩工場。現在は4基の釜で製塩を行う。
はじめは一種類のみを販売していたが、天候や季節、薪の状態などによっても味が左右される塩を無駄にしないために、新たに〈おくだ荘の井田塩〉として複数種の塩を販売することに。
3年前からは通販もスタートし、今では全国でも名だたる高級料亭や寿司屋からも指名を受ける人気っぷりだ。
そんな井田塩は、沖縄・宮古島と並び「透明度日本一」とも称される井田の海水を13時間焚くことでつくられる。
井田の海水浴場では、なんと熱帯魚と一緒に泳げてしまう。この日も大量の小魚が浅瀬を泳いでいた。
「海水を汲みに行くと、必ず1回は味を見ます。本当においしいと、飲めちゃうんですよ! ここは小さい集落なのに上下水道が完備されていて排水がないので、山の水しか海に流れこまないんです」(美幸さん)
「そのうえ岩山だから、よほどの雨が降らない限り、茶色い水が流れてこないんです。富士山の湧き水が海底から出ているところもあって、海水が透明なんですよね」(豊さん)
1日で150〜200キロほどの薪を消費する。
薪材に使われるのは、地元の天然スギやヒノキ。本来、暖炉やキャンプ、建築などに使われるはずが、汚れや傷があって出荷できなかったものを譲ってもらっているのだという。
この薪を使い、4基の釜を使って焚く。
約1500年前の文献から着想を得てはじまった〈おくだ荘の井田塩〉では、昔の焚き方に近い製法で焚くために「平窯式製塩」という製塩方法を採用している。およそ100年前は、山から木を切り出して海岸で塩を焚いていたと、美幸さんは祖母から聞いていたという。
平窯式製塩の製法はシンプルだが、多くの時間と労力を要する。
まず井田の海から汲んできた透明な海水を釜に入れ、薪で熱して蒸発させる。その後、隣の釜であたためた海水を複数回足していき、徐々に塩の濃度を高めていく。
そうして姿をあらわした塩の結晶を網ですくい、苦汁(ニガリ)を含んだ水分を絞ることで、サラサラとした〈おくだ荘の井田塩〉が完成するのだ。
15〜20時間で、1釜あたり5キロとれるかとれないか。
手間はかかるが、こうした自然製法を採用することで、富士山の恵みを豊富に含んだ井田の海水に含まれるさまざまなミネラル分をそのまま生かすことができ、深い旨みにつながっている。
コロナ禍をきっかけに家族がひとつにおくだ荘の製塩業は弓削さん夫婦を中心に、3人のお子さんたちと力を合わせて取り組まれている。
「大量に安く売ろうとすると品質の維持が難しくなるし、人を多く雇うとその分生産をあげなきゃいけないじゃないですか。だからうちの場合、家族数人でやるのがちょうどいいんですよね」(豊さん)
水分を絞る前の、できたての塩。
おくだ荘のHPや通販の管理は、広告代理店で働く長男の侑樹さんご夫婦が担当。ウェブサイトの設計までを手がけ、おくだ荘のブランディングの大部分を担っている。
次男の直豊さんは土肥(とい)のイタリアンレストランに勤めながら、休みの日にはおくだ荘の仕事も手伝う。管理栄養士の資格を持つ長女の琴音さんも、塩の引き立つ料理の考案などで携わっているという。
4年半前に先代の三樹夫さんが亡くなったとき、おじいちゃん子だったという次男の直豊さんは大学4年生。ぽっかり穴のあいたおくだ荘の運営を、お休みの間はずっと手伝っていたという。大学卒業後はすぐに家業には入らず、新卒で豊洲市場にある会社に勤めた。
当時会社員だった夫の豊さんは、平日は仕事に行きながら土日だけおくだ荘を手伝う生活を半年続けた。
そんななかで訪れたのが、観光業にも大打撃を与えた新型コロナウイルスの流行だ。宿泊施設であるおくだ荘も、その例に漏れない。このとき、はじめに動いたのが長男の侑樹さんだった。
「おくだ荘の売り上げが下がって困ってるんじゃない?と心配して家族5人のラインに『通販やれるところを探してみる』って連絡をくれて。娘は管理栄養士をやっているので、『じゃあ私、お塩に合う料理を考える』って提案してくれたんです。直豊はその年の夏ぐらいに急に、『俺やっぱ帰るよ』って言い出して。その後に今働いている土肥の宿泊施設の社長さんと知り合いになって、会社を辞めたんです。最終出社日にみんなのところへ挨拶にうかがったときに、うちのお塩を持って歩いたらしいんですよ。そしたらみなさんがすごく興味を持ってくださって。その関係から、いろんなプロの料理人の方にもご注文をいただけるようになったんです」(美幸さん)
ほかの所有者が管理できなくなった田んぼも含めてお米をつくっている。
直豊さんが現在勤めている土肥のホテル〈LOQUAT 西伊豆〉のコース料理にも、〈おくだ荘の井田塩〉がクレジットつきで使われている。そこで井田を知った宿泊客が、井田の海水浴場にも訪れてくれるようになったという。
「井田塩」からはじまる“まちおこし”今では全国へ塩を販売しているおくだ荘。今後は日本の原風景の残る井田という場所の魅力を発信する取り組みにも、力を入れていきたいと考えている。
そんな井田の観光名所のひとつが、「井田」の形に植栽された菜の花だ。「きらめきの丘」と呼ばれる高台から見ると、きれいな菜の花畑を眺めることができる。
(写真提供:おくだ荘)
菜の花はお米の収穫後、田んぼに種を撒き、冬から春先にかけて花を咲かせる。もともとは井田の民宿組合が、閑散期となる冬の観光客を増やそうと約40年前から始め、今ではおくだ荘が中心となってその取り組みを続けている。
「将来的には、昭和の実家のような場所をつくりたい。パソコンとかスマホのスイッチを切って、『今から泳ぎに行ってくるね、釣りしてくるね』って遊びに行って、お腹が空いたらおにぎりあるよっていうような、親戚のおばちゃんちみたいな感覚で来てもらいたいです」(美幸さん)
自家製のお米と塩で握ったおにぎり、そのお米と塩でつくった塩麹で味つけをした唐揚げの定食。生産が追いつかないためメニューとしては出していないが、一度食べたら忘れられないほどにおいしい。
そんな未来に向けて現在考えているというのが、塩の工場見学とセットで楽しめる「自然体験ツアー」。都会で育ち、田舎での遊び方がわからない家庭に向けて、子どもたちの安全に配慮しながら親子で一緒に楽しめる自然体験の案内役をやりたいと考えているのだそう。これは直豊さんの発案だ。
「ちっちゃい頃からここが遊び場だったから、それしか知らなくて。それに“まちで遊ぶ”って大人になればいくらでもできるけど、感覚がすぐれている幼い頃に自然の中で遊ぶ体験は貴重だなと思うんです。でも田舎での遊び方を、東京で育った親御さんたちは教えられないことが多いと思うから、そういう体験ができる環境をつくりたいと思いました」(直豊さん)
1日に10匹以上くることもあるという玉虫。お客さんが来たときのために捕獲し、夕方になったら逃がしている。
そのほかにも、LOQUAT 西伊豆と協業での新規事業や、ドッグラン併設のカフェ経営なども検討中と、家族5人のアイデアは止まらない。
トラクターやコンバインなどの機械を操作するようになったのは定年になってからだという豊さん。「定年前よりよっぽど忙しいよね」と笑う姿は、日々の充実感を物語っているようだ。
「地味でもコツコツ仕事をしていると認めてくださる方々がいて、ありがたいなぁと。シンプルな製法でやっているだけにごまかしようがないので、日々精進の心を忘れないように過ごしています」(美幸さん)
information
民宿おくだ荘
住所:静岡県沼津市井田127
Tel:0558-94-2951
営業日:休業中(営業再開日は未定)
Web:おくだ荘の井田塩
【おくだ荘の井田塩】
主な販売先:おくだ荘公式ECサイト/民宿おくだ荘(要電話予約)
価格:120g 864円 / 500g 3630円 /1キロ 7150円
Web:おくだ荘の井田塩 公式ECサイト
writer profile
Haruka Iwasawa
岩澤春香
いわさわ・はるか●ライター、編集者。千葉県松戸市出身。ライフスタイルメディアでの編集や、カルチャー誌での執筆を中心に活動。2021年に静岡県へ移住。「〜だら」(静岡の方言)はまだ使いこなせていない。
photographer profile
Motoki Adachi
安達元紀
あだち・もとき●1977年、山形生まれ、東京在住。アーティストポートレート・ファッション・料理撮影を中心に活動。ライフワークは山形の原風景と人々の撮影。