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熊本地震から5年。南阿蘇〈ひなた文庫〉が振り返るあのときのこと、これまでのこと

  • 2021年4月14日
  • コロカル

2015年に、南阿蘇鉄道の無人の駅舎にオープンした小さな古本屋〈ひなた文庫〉。その翌年、2016年に熊本地震が起き、鉄道が不通のいまも、同じ駅で週末だけの営業を続けています。そのひなた文庫の店主が、この5年を振り返り、いまの思いを綴る特別寄稿です。

大きな2度の地震

5年前の4月14日、熊本県益城町を中心に起きた大きな地震。南阿蘇村の隣、大津町の自宅のベッドで横になっていて強い揺れを感じた。本棚からバラバラと落ちてくる本から頭を守りながら訳もわからないまま揺れが収まるのを待った。熊本が震源の大きな地震なんていままで記憶になかったので、まさかという思いだった。

私たちの近所や自宅アパートはそんなに被害はなかったものの、風呂場のタイルが剥がれて使えなくなったので、翌日は南阿蘇の実家に泊まることにした。

昼の間も体に感じる揺れは何度もあったが、通常通り仕事を終え、〈ひなた文庫〉のある駅舎の様子を見に行った。建物に被害もなく安心し、帰って家族でごはんを食べながら、「益城町はひどいことになっている、まだ余震もあるから怖いね」などと話して床についた。

深夜午前1時25分、 ゴゴゴゴというどこから聞こえてくるのかわからない大きな地響きと、肩を掴んで思い切り揺さぶられたような激しい揺れにいきなり襲われた。14日に感じたものとは比べものにならなかった。声にならない悲鳴が口から漏れ、早く収まることだけを願っていた。真っ暗闇のなか、必死に耐えたあのときの恐怖は未だに忘れられない。

揺れが収まるのと同時に、隣で寝ていた夫と、別の部屋で寝ていたお義母さん、お義父さんはおばあちゃんをおんぶして、やっとの思いで縁側から外へ出た。すると家の裏山の方向から、カラカラと石の転がる音がしていた。

その後、この地震は震度7を2度も記録した観測史上初の大きな地震だったとわかり、14日に起きた地震を前震、16日に起きた地震を本震と呼び、「熊本地震」と名づけられた。

この地震によって崩落した阿蘇大橋は実家から車で2分もかからない場所にあった。裏山は阿蘇大橋を丸ごと押し流してしまった山と同じ地続きの山だ。あのカラカラと聞こえてきた音を思い出すとぞっとする。ほんの少しでも時間や場所が違っていたら、逃げる方向が違っていたら、そう考えると、あの地震で死を免れたというのは偶然のことなのだと思う。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。

阿蘇大橋を押し流した山崩れの跡。

〈ひなた文庫〉再開へ

地震後、実家は全壊で住めなくなり、2週間ほど車中泊で過ごした。地震直後は賃貸物件もほとんどなくなってしまい、仮設住居も建設に時間がかかる。高齢のおばあちゃんには私たち夫婦が住んでいたアパートに移ってもらい一緒に暮らし、お義父さんたちは被害を受けたままの実家で生活していた。

1年ほどして全壊だった実家は取り壊すことになり、私たちは中古のプレハブを購入し、自分たちで内装をし、シャワーやトイレも付けてそこで暮らして、お義父さんたちにアパートに移ってもらった。

その頃は住むところもままならないまま、なんとか生活していかなければと、家業である飲食店で休みなく働いていた。

週末だけ営業していたひなた文庫も開けることができないままだった。九州全体が大変な状況で、いまはみんなが大変なときなんだからしんどいのは仕方ない、そう頭でわかっていても、体の疲れや精神的な不安、そんなものがちょっとずつ抱えきれなくなって、私も家族も体の不調や喧嘩をすることが多くなっていた。いま思えばとても辛い時期だった。

体は疲れているのに変に興奮状態というか、前に進まなければという想いが強くなり、夫が小屋を自作してくれ、職場の駐車場で小さな本屋を始めた。ひなた文庫のある駅までは道が寸断され、迂回路を通ると普段の倍の時間がかかるようになっていたし、家業のほうも人手が足りず動けないので、ここで始めてみたのだ。

すると地震以前に駅舎に来てくれていたお客さんが、SNSを見て会いに来てくれた。まだ道路状況もよくないときだったのにわざわざ訪ねて来てくれたのだ。互いに無事でよかったと声をかけあったあのとき、心がほどけていくような込み上げてくる温かさが、いまでも忘れられない。

夫がつくった小屋で、本屋を開いた。

夫がつくった小屋で、本屋を開いた。

それから、通う時間は以前より倍かかっても、できる範囲で駅での営業を再開した。ひなた文庫は「本が人、自然、地域をつなげていく場所」とスローガンを決めて始めたのだけれど、それは何より私が一番必要としているものだとこのとき実感した。私が私として生きていくために必要な場所。

地域にとっての南阿蘇鉄道

あれから5年、私たち夫婦が古本屋を営む南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」には汽車はまだ通わない。

地震から3年経ったある日、駅の近くの遮断機の警笛が鳴った。恐らく地震で壊れていたものの修理か点検のために鳴らされたのだろうが、はじめは何の音が鳴っているのかわからなかった。それほど自分の中で遮断機の音はこの場所と合致しないものになっていた。

ひなた文庫のある「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」。菜の花が生えた線路。

ひなた文庫のある「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」。菜の花が生えた線路。

線路やトンネルも被害を受け、現在は部分復旧して、10駅あるうちの5駅間を折り返し運転している。

だが運転を再開している区間も、JRと接続している始発駅がある区間ではないため、南阿蘇鉄道に乗るためには車かバスで来るほかない。通勤・通学や病院などに出かけるための地元住民の利用はほとんどなくなってしまった。いまは観光列車として走っているトロッコ列車に乗りに来るお客さんが主な乗客だ。

地震以前は、熊本市内の高校に通う学生が部活前に駅舎でちょっと本を読んでいくことがあった。地震からあの子には会っていないし、もう卒業してしまっただろう。

そんな状況でも、南阿蘇鉄道が廃線にならずに全線復旧に向かっていまも進んでいるのは、地元住民の理解があるからこそだ。地震後に南阿蘇村の全住民に向けて行われた「南阿蘇鉄道は今後も必要か」というアンケートで、87%の住民が必要だと答えた。

「外から観光客を呼び込み、村が活性化するうえで必要」や「車やバスが利用できないとき、有事のときに必要」「人口流出を食い止めるためにも必要」との回答だった。日常生活を送るうえでの必要な移動手段としてだけでなく、村の観光や定住の促進としても必要不可欠な存在なのだと理解されているとわかったのだ。

地震以前もそんなにたくさんの村人が利用しているわけではなかった。乗ったこともないし、駅自体訪れたこともないと話す住民もいるが、自分がいま利用しなくても、それでも南阿蘇鉄道はこの村に必要だと思っている、その思いが示されたことで、私たち駅世話人や南阿蘇鉄道の従業員がどんなに救われ、勇気をもらっただろう。

それでも、いまできることを

汽車が来ない駅だからこそできる本屋のイベントとして、地震が起きてから始めたイベントがある。「本屋真夜中」というイベント。駅のホームで朗読をし、駐車場を野外映画劇場にし、夜が更けたら南阿蘇の満天の星空を眺めて本好きと語り合う、そんな夜の風景。

2018年からは熊本大学の学生たちからなる〈南鉄応援団〉と熊本を拠点に活動している〈おたがいさま食堂〉との共同で、参加者と駅舎で流しそうめんや郷土料理をつくって食べ、最後に駅舎掃除をしてもらう企画も行っている。

南阿蘇鉄道や駅舎での思い出をつくってもらい、全線復旧後にまた汽車に乗って来てもらう、そんなつながりができたらと始まった。地元はもちろん、熊本市内からや県外からもお客さんが参加してくれて、私たち自身の楽しみにもなっていた。

2019年に行った流しそうめんのイベント。

2019年に行った流しそうめんのイベント。

しかし、それも新型コロナウイルスの影響で昨年は難しかった。営業すること自体、いいのか悩むような日々が続いた。結局営業も4月から4か月間休みにして、南鉄応援団とのイベントはできなかった。

それでも「本屋真夜中」はできるかたちを模索して、「本屋真夜中2020オンライン」と題して、東京で映像の仕事をしている友人や福岡で暮らすWebデザイナーの友人らの協力のもと、特設サイトをつくり、駅のホームでの朗読を配信したり、ひなた文庫の本棚を再現したページをつくったり、印象に残っている本と場所にまつわるエッセイを寄稿してもらったりと、さまざまなコンテンツを配信した。

何もできそうにないからとただ中止にするのは嫌だった。結果として、いままでの「本屋真夜中」よりも幅広い人と関わりを持ってオンラインのコンテンツをつくることができ、違ったやり方を模索する機会になって良かったと思っている。

コンクリートで補修された山肌と2020年8月に復旧したJR豊肥線を走る列車。

コンクリートで補修された山肌と2020年8月に復旧したJR豊肥線を走る列車。

震災からの復旧という意味では、南阿蘇村としても昨年からうれしいニュースが続いている。2020年8月には、熊本地震から一部区間で不通となっていた熊本と大分をつなぐJR豊肥線が、4年4か月ぶりに開通した。これによって南阿蘇鉄道のJRとの接続駅である立野駅に列車が再び入って来られるようになった。

JR豊肥線の立野駅とJRの車両。

JR豊肥線の立野駅とJRの車両。

そして以前から要望の多かった、南阿蘇鉄道の列車をJR豊肥線の肥後大津駅まで乗り入れる計画も動き出している。この案は要望書として南阿蘇鉄道からJR九州に提出され、JR側も「前向きに検討する」と回答している。

これが実現できれば、くまもと空港の最寄り駅でもあるJR肥後大津駅から立野駅で乗り換えをせずに南阿蘇地域へスムーズな移動ができるようになる。これは南阿蘇村側からJR肥後大津駅までの移動についても言えることで、大津町に病院や買い物へ行くことが多い南阿蘇地域の住民にとっても利便性が高まる。観光客だけでなく、地域住民にもメリットが高い計画なのだ。

南阿蘇鉄道の立野駅の現在の様子。

南阿蘇鉄道の立野駅の現在の様子。

地震があったからこそ得た気づき

そして先月、熊本地震の山崩れによって崩落した阿蘇大橋が、600メートル下流に「新阿蘇大橋」として新たに架けられた。24時間態勢で工事されていたこの新阿蘇大橋、日に日に延びていく橋桁を見るのは目に見えて復興が進んでいるように感じられ、近くを通るたびに目が向くようになっていた。

開通の日は、橋には数多くの地元住民の方たちが訪れ、近くでマルシェが行われたり、開通時のライブ配信が見られたりと、村全体が祝福のムードに包まれた。

新しく架けられた新阿蘇大橋。

新しく架けられた新阿蘇大橋。

本震が起きるほんの数時間前に駅舎の被害がないか確かめるのに通った阿蘇大橋、崩落時に1名の方が犠牲になっている。時間が違えばそれは私たちだったかもしれない。

新設された新阿蘇大橋は、この地震での教訓を踏まえ、将来大きな地震が起きた際にもできる限り耐えうるような技術を用いて橋づくりがなされた。この橋の下も活断層があると推定される場所のため、根本的な解決策というわけではないし、橋の横に目を向けると、いまも崩落した阿蘇大橋の残骸がそのまま残っている。

地球の上で生きるということは、すべて人間の思いのままに暮らせるということではない。大地は少しずつ動いているし、昨日と同じような朝がくるとは限らないと、この地震で思い知らされた。

それでも“自然”と折り合いをつけ、学び、備えながら私たちは生活していかなければならない。日々の生活を送るなかでは忘れがちなことだけれど、この橋を通るときよく思い出すことだ。

いま線路の前はレンゲ畑が満開。

いま線路の前はレンゲ畑が満開。

もし地震が起きていなければどうなっていただろうと考えることがあるけれど、浮かんでくるのは逆に地震で得た気づきや、関係ばかりだ。熊本地震という出来事はもう私の人生の一部になっているのだと、この文章を書きながら気づかされた。自分から望んでした経験ではないけれど、それがなければいまの私はいない。辛かった思いも含めて、この5年で得たものを大切に思っている。

南阿蘇鉄道の全線復旧は2023年の夏。いまはその2年後を楽しみに、これからもひなた文庫を続けていこうと思っている。

information

ひなた文庫

住所:熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字中松1220-1

営業時間:金・土曜日のみ 11:00〜15:30

http://www.hinatabunko.jp

writer profile

Emi Nakao

中尾恵美

なかお・えみ●1989年、岡山県勝田郡生まれ。広島市立大学国際学部卒業。出版社の広告営業、書店員を経て2015年から〈ひなた文庫〉店主。

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