那須連山の西端、深い山間に佇む湯治の里「板室温泉」。その歴史は古く、平安時代に発見され、「下野(しもつけ)の薬湯」と親しまれるように。今では昔ながらの情緒と温泉文化が残る通りにモダンな旅館が立ち並び、懐かしさと新しさが調和する温泉地として観光客を集めています。その板室温泉に佇む老舗宿が、〈板室温泉大黒屋〉。
保養とアートの宿〈板室温泉大黒屋〉。
こちらは、アート愛好家やアーティストから噂を聞いて、いつかは泊まってみたいと思っていた場所。1551年に創業した老舗旅館でありながら、ギャラリーや〈菅木志雄 倉庫美術館〉を併設し、館内のあちこちに作品を配した、アートを取り入れている宿なのです。
小川に架かった小さな橋を渡り敷地に入っていくと、鳥居のような形をした木の門が現れ、庭が見えてきました。この庭は、世界的に知られる現代美術作家、菅木志雄さんの作品。絶妙なバランスでもみじや岩石、オブジェなどが配されており、そばを流れる川の向こうには紅葉した山肌が迫っています。
菅木志雄『木庭・風の耕路』(2009)。木の門は、大黒屋代表の室井俊二さんの「風」をつくってほしいという希望に菅さんが応えて手がけたもの。(撮影:宮越裕生)
傍らの囲炉裏からは煙があがっており、薪の上には、大きな鉄瓶が。宿泊客はここで自由にお茶を淹れて飲めるのですが、その一服が、何とも言えずおいしい。山の空気とともにいただくお茶の味は、格別です。
囲炉裏のそばには作家ものの湯呑みが多数置いてあり、好きな器で飲めるようになっています。
客室はすべて、那珂川に面した南向き。窓からは山の緑が見え、川の音が聴こえてきます。室内は黄土の壁や木目の美しい家具など、自然の素材を生かした落ち着く空間。
フロント主任の池田春子さんによると、シングルルームは、物書きの方も気に入っている部屋なのだとか。突然訪れ、一気に仕事を仕上げていくこともあるそうです。
松の館のシングルルーム。このほかに梅の館、竹の館があり、和室や和洋室もあります。
朝ごはんと夜ごはんは、お部屋で(写真は朝食)。体の中から健康になるように、化学調味料などは一切使わず、地のものを生かし、ていねいにつくられた料理がいただけます。料理の味は、もちろん絶品。
楽しみにしていた温泉は、こんな感じ。
源泉かけ流しの「露天の湯」。このほかに「ひのきの湯」や「たいようの湯」、黄土浴「アタラクシア」があります。
露天風呂も川に面しており、川のせせらぎを聞きながら温泉につかれます。泉質はアルカリ性単純泉で湯温は約40度。刺激が少なくいつまでも入っていられるので、ゆっくり温まれました。
「保養とアートの宿」が生まれるきっかけ大黒屋が現在のようなしつらえになったのは、16代目の室井俊二さんが1986年に代表になってから。なぜ「保養とアートの宿」をつくろうと思ったのか。その理由は、37歳のときに訪れた、冬の京都の美しさにありました。
〈板室温泉大黒屋〉代表・室井俊二さん。
「禅宗の寺に見られる庭の美しさに唖然としたんですよ。砂紋の上にさーっと雪が降っていてね。芸術だと思いました。それで、後日もう一度見にいってみたら、雪が消えていたんです。その時に、瞬間の芸術というものがあるのではないか、と思ったんです。それから哲学の本を読みあさり、こういう宿をつくろうと思ったわけです」
1階にあるサロン。月ごとに企画展を開催しており、これまでに菅木志雄、磯谷博史、加藤委、安齊賢太、山本雄基などの個展を開催。宿の中にはサロンだけではなく、そこかしこに作品が展示されています。
大黒屋で出会える“芸術”には、常に季節との関わりがあるといいます。
「たとえば春は桜ですね。河原に桜の木が植わっていますが、立派な木になるまでに17年かかりました。夏は蛍、秋は紅葉や秋桜。冬は砂紋と雪。私はそういった要素が芸術だと思っているんです。そのことを伝えるために芸術家の力を借り、どうやって季節感を表現するかということに努めてきました」
圧倒的な作品数を誇る〈菅木志雄 倉庫美術館〉。バリエーションの豊かさに驚かされる。
特に、菅木志雄さんの手がけた庭や、新作から旧作まで展示している倉庫美術館は圧巻。
「私はグローバルな視点で“物事”を売る経営をしていくという方向性に切り替え、時間と空間で見せる戦略を実践してきました。それと同時に、芸術の役割についていろいろな場で語ってきたのですが、これがなかなか伝わらない。そこで、世界にも通用するすばらしい思想哲学を作品で表現する菅さんをお誘いしたわけです」
私たちが訪れたときはサロンにてガラス作家、瀬沼健太郎さんの個展を開催(2020年11月)。淡い光を宿した器が辺りの景色に溶け込んでいました。現在、企画展のキュレーションは専務の室井康希さんが行っています。
アートを取り入れて30年。独自の哲学でいまの大黒屋をつくりあげてきた室井さん。一方、宿の周りを歩いていると、籠をもって庭や河原を歩き、ゴミを拾ったりしている室井さんに出会います。
「私はここで“場と場所の関係性”のマネジメントを行っています。ゴミが落ちていれば拾いますし、途中でいい花を見つけたら摘んできて、活けたりもします。生活文化、芸術文化、温泉文化が売りですから。それでも、世に理解されるまでには時間がかかりましたよ。周りに共感してくれる人がいなければ、とても実現できなかったですね」
皮膚感覚で、嗅覚で、全身で体験する作品のような宿。宿泊客の7割の方がリピーターというのも、納得です。
那須には、大黒屋のほかにも、奈良美智さんの作品を展示する〈N’s YARD〉や建築家、石上純也さんが手掛けた『水庭』が見られる〈アート ビオトープ那須〉などのアートスポットがあるので、充実したアートの旅が楽しめそうです。
自然のなかでワーケーションもまた、2020年冬から、板室温泉ではワーケーションプランを用意しています。滞在して仕事をしながら、リバーウォーキングやカヌー、SUPなどが体験できるほか、〈那須フィッシュランド〉では、那珂川沿いの自然の中で釣りやバーベキューを楽しめます。
こちらが渓流釣場。水のきれいさに感動!
〈那須フィッシュランド〉の渓流釣り場。料金は2時間3000円から。
渓流釣りといっても、岩魚や山女を放流してくれるので、初めての方でも安心です(初心者の私でも釣れました!)。
釣った魚で料理してもらった塩焼きと唐揚げの定食。
板室温泉大黒屋のワーケーションプランは、大手旅行サイトから申し込み可能です。気になった方は、ぜひチェックしてみてください。
information
板室温泉 大黒屋
住所:栃木県那須塩原市板室856番地
TEL:0287-69-0226
http://www.itamuro-daikokuya.com/
information
那須フィッシュランド
住所:栃木県那須塩原市板室46
TEL:0287-69-0009
https://nasufish.com/
writer profile
Yu Miyakoshi
宮越裕生
みやこし・ゆう●神奈川県出身。大学で絵を学んだ後、ギャラリーや事務の仕事をへて2011年よりライターに。アートや旅、食などについて書いています。音楽好きだけど音痴。リリカルに生きるべく精進するまいにちです。
photographer profile
Nanako Ono
小野奈那子
おの・ななこ●兵庫県神戸市出身。関西大学卒業後、撮影スタジオと並行して平間至主宰gallery pippo 勤務。2012年よりフリーランスで活動開始。雑誌、カタログ、webなどの媒体での撮影の他、写真・詩・デザインを即興的に組み立てるユニット「MADO」での活動も行う。http://nanakoono.com/