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山中瑶子監督が語る『ナミビアの砂漠』。無意味に過ごす時期があってもいいし、一生それでもいい

  • 2024年9月13日

Text by 井戸沼紀美
Text by 吉田薫
Text by 西田香織

カナ(河合優実)は脱毛サロンで働く21歳。甲斐甲斐しくカナの世話を焼く彼氏・ホンダ(寛一郎)との同棲中に、クリエイターのハヤシ(金子大地)と関係を持つ。そしてホンダと別れハヤシと同棲生活をスタートさせるのだが、カナは次第に心のバランスを崩していく――。


9月6日公開の『ナミビアの砂漠』は、デビュー作『あみこ』で注目を集めた山中瑶子監督の約7年ぶりとなる長編映画。主演を務める河合優実に当て書きしたという「カナ」は、破天荒で自己中心的だが、自身の心の声を聞き逃さない純粋さと賢さがある、目が離せなくなる魅力を持った主人公だ。


山中監督はこのカナという人間をどのように描いていったのだろうか。またどうしてカナを描こうと思ったのか。本記事では、山中監督とプライベートでも交流がある、「肌蹴る光線」(映画の上映 / 執筆活動を軸としたプロジェクト)の井戸沼紀美を聞き手に迎えインタビューを実施。いまを生きる若者の感覚や「若さと老い」といった普遍的なテーマ、本作における身体的な表現についてまで、30分という短い時間のなかでたっぷりとお話しいただいた。

―主人公のカナがとにかく魅力的で。どうやってこのキャラクターが生まれていったのか気になります。


山中:河合優実さんを主人公に脚本を書くぞ、となったときに、自分より年下である今の20代前半の子たちが何を考えているのかすでにわからなくなってきた感覚があって。河合さんや年下のスタッフの子にいろいろと話を聞きました。「いまの日本、東京で生きてる気分はどう?」みたいな、ざっくりした話とか。そうすると、みんな立場や属性は違えど、終末みたいなムードを感じていることがわかってきて。


山中瑶子(やまなか ようこ)
1997年生まれ。日本大学芸術学部映画学科に入学後、同校を休学中に『あみこ』(2018年公開)を制作。同作にて「PFFアワード2017」で観客賞を受賞。ベルリン国際映画祭、香港国際映画祭、全州映画祭、ファンタジア国際映画祭など多数の海外映画祭に出品された。オムニバス映画『21世紀の女の子』(2019年公開)に、短編『回転てん子とどりーむ母ちゃん』で参加。『ナミビアの砂漠』で、第77回カンヌ国際映画祭の国際映画批評家連盟賞を受賞。

―劇中にも「日本は少子化と貧困で終わっていく」というセリフがありました。


山中:もう日本は終わっていく、という感覚を抱いたときに「最悪、何でこうなってしまったの?」という人もいれば、「もう終わっていくだけだから真面目に考えなくていい、むしろやりたいことがやれる」という人もいて。そういう話をちゃんと聞けば聞くほど「おかしいのはこの人たちでなく世界」、みたいなことになっていくというか。


だからカナに対しても、めちゃくちゃで、不義理で、自己中心的な、ダメな部分も描こうとしてはいるけど、それだけじゃいけないな、と思ったんです。


―作品を観ると、一見破天荒に見えるカナは混沌とした世界に必死に抵抗しているだけで、常識があって頭がよく、主体性がある人物のようにも思えました。


山中:本当におっしゃるとおりで。世界がめちゃくちゃだっていうことを忘れがちですよね。


―瑶子ちゃん自身は、生活していて「終わっていく感じ」を感じることはある?


山中:うーん。明らかに、駅でお酒飲んで倒れてる人が増えたな、とか。政治家も、私が子どものときはもうちょっとちゃんとしていたような気がするし。木を切ったり、街で見るいじわるベンチも嫌ですね。属性の違う他者に対して不寛容すぎたり、悪意を向ける局面を見ることが増しています。


ネット上のヘイターなんかを見ていても、実際にはそんな人に出会うことがあまりないからこそ、「誰?」「どこにいるの?」と怖くなります。カナが言う「やってることと思ってることが違う人がそこらじゅうにいるのは怖い」ってセリフにはそういう感覚が反映されているかもしれません。インターネットで人の極端な部分が可視化されやすくなった側面もあると思うんですけど。

山中:『ナミビアの砂漠』では、実際に感じていることと身体に出ることのズレを表現したい気持ちもありました。言っていることは嘘でも、仕草を見たら、その人の考えていることが見えてくるような。だから身体的な表現が多くなっていて。


それを脚本上で読むと、街で突然側転をするだとか、意味が通りづらい部分もあったと思うんです。でもスタッフたちは「この動きはどういう意味ですか」と誰も聞いてこなくて。すごくいい現場だな、と思いました(笑)。


―劇中、河合さんをはじめとして、俳優さんたちの身体が本当に魅力的で。躍動している身体を、躍動したまま撮れるのがすごいと思いました。


山中:カナの身体をのびのび健康的に撮るということはすごく意識していました。河合さんには決めた範囲の中ではなるべく自由に動いてもらいたかったので、それを起動力高く追えるようにカメラマンの米倉(伸)さんとも相談して、手持ちの、軽めのカメラで撮影をして。画面をスタンダードサイズにしたのも、サイズを狭めることで、躍動感がはみ出るような感じ、エネルギーを持て余している感じが伝わるかなと思ったからです。


20歳そこそこの、急に社会に放り出されて、自我があるようでない、自分の体だけすごく大きくなったような持て余し方。自分の身体のコントロールできなさ、みたいな部分が表現できればと考えていました。


―芯があるようなないような、ぐにゃぐにゃした歩き方や走り方も印象的でした。


山中:大股で、ちょっと間抜けな顔で歩いてもらったり、コツコツ鳴る厚底のつっかけみたいな靴を履いてもらったりしましたね。でも、私が言ったのはそれくらいで! 河合さんは私のちょっとした言葉から本当に多くのことを受け取ってくれるんです。カナは身体を持て余しているかもしれないけれど、河合さんはとても自覚的に自分の身体を使ってくれました。


―劇中、かなり激しく身体を動かすシーンもあったと思いますが、役者さんのケアはどのようにしていましたか? 取っ組み合いの喧嘩など、物理的な危険がともなうシーンも多かったのではないかと思います。


山中:本当に危険なシーンにはスタントの人に入ってもらいました。例えば階段を転げ落ちるシーンについて「河合さん体張ってたね!」と言われることもあるのですが、そんなわけないでしょ、と(笑)。喧嘩のシーンにはアクション部を入れましたし、事前にリハーサルを3、4回して、なるべくテイクは重ねずに撮りましたね。振りも全部決めて。


―喧嘩シーンの振りはどうやって決めていったのでしょうか?


山中:どうしたら滑稽に見えるかな、ということを考えました。アクション部の方がつけてくれる振りは、基本的に本当の暴力というか、映画で格好良く見える暴力という感じなんです。でも、それだとあんまり笑えないねという話になり。そこからは河合さんや金子(大地)さんも一緒に案を出し合ってくれました。「肩車したら、プロレスっぽくなっていいかもね」とか。


―プロレスつながりで言うと、個人的には『ナミビアの砂漠』の喧嘩シーンを観たとき『カリフォルニア・ドールズ』(ロバート・アルドリッチ監督、1981年)の泥試合を思い出しました。女たちがお互いの衣服をつかんで取っ組み合いをすると胸が丸見えになり、映画はそれを映し続けるのですが、前に文筆家の五所純子さんがそのシーンを「女だって胸くらい出すし、胸出てるくらいで騒ぐな」というような文脈で紹介されていて。『ナミビア』からもそんな姿勢を感じるなあと。


山中:五所純子さん、今回まさにパンフレットの寄稿をお願いしました! そして私も「胸なんて映したっていい」と思っていますね。性的な対象ではない、生活の一部としてあたりまえにある身体を映したいと思っています。


ただ、実際にそれを自分が撮るかどうかはもちろん俳優の選択が最優先であると思っています。こちらが無理にお願いすることではなく、映画においての意図やわたしの考えを伝えて、理解された上でできることです。


―「胸なんて出したっていい」と思いながらも、実際にそれをできるかどうかとなるとさまざまなハードルがありますよね。男性は屋外で上裸になってもそこまで驚かれないのに、女となるとそうもいかないとか。序盤に出てくるハヤシの立ちションも、同じような文脈で印象に残りました。


山中:まさに! 物陰さえあれば平気で立ちションをする男性がたまにいますが、女性にとっては危険が伴う行為ですよね。そういう不均衡については、常に思うところがあります。フィンランドなど諸外国では、公共のサウナやビーチに全裸でいても性的に眼差されることはないのに、こと日本においてはそうはいかない。性的に消費されるためだけに女性の身体があるように感じることが日本では多すぎます。


―最後にあらためて、今回の映画でなぜ21歳の女性の物語を描こうと思ったのかが知りたいなと思いました。作中にいろいろなテーマがあるなかで「若さと老い」みたいなことも、重要な一つとしてあると思っていて。


山中:そうですね。私は20歳で初めてつくった映画(『あみこ』)がバッと評価されたことで、20歳前後の期間に、あんまり自分のことを考える時間がなかった自覚があるんです。四六時中映画のことを考えるべき、というようなことを当時は本気で思っていて。でも、いま振り返るとそれってひどいことだと思うんです。「この世のすべてが映画のネタになりうる」みたいな思考になっていくから。


―人間関係とかも。


山中:はい。例えば、嫌なことを言われても「それも映画のネタになるじゃん」と思ってしまう。周囲からも、そういう言葉を投げかけられることが多かったですし。そういう考え方がすごく嫌だったということを、ここ数年で自覚して。『ナミビア』のなかでクリエイターのハヤシを批判する言葉は、自分にも向かっている部分があるんです。自分の本当の気持ちに目を向けなさすぎたツケってどう回って来るのかな、ということを考えるようになって。それが今回の映画をつくった大きな原動力になっているかもしれません。


―そんなふうに感じていた時期があったんですね。


山中:そうなんです。別に「わざと波乱を起こそう」とかはないんですけど。自分の感情とか、人の感情を真剣に考えられていなかったな、と思います。周りの人によくない影響を与えた側面もあっただろうし。


―劇中では唐田えりかさん演じるアパートの隣人や渋谷采郁さん演じるカウンセラーなど、カナより年上の人々がとても魅力的に描かれていて。それを見ていると、瑶子ちゃん自身は、歳を重ねることに対して悲観的ではないのかなとも思ったのですが、実際にはどうでしょう?


山中:確かにそうですね。そうなればいいな、という願望もあるかもですけど。歳をとるということが……いいことだと年々思えてきています。歳を重ねれば重ねるほど新しい感情も知れるだろうし。自分のこれまでを振り返ると、何もわかってなかったな、といまですら思うので。また10年後、いまの自分に対して「全然わかってないな」と思うだろうし、死ぬときにも「何もわからなかったな」と思って死ぬんだろうなと(笑)。


―監督した映画を広める言葉のなかに「最年少」「女性」「◯歳」といった内容が多いことについても、どう思っているのか聞いてみたいと思っていました。そういう言葉とともに宣伝活動をしていくと、他の人よりも自分の若さに自覚的にならざるを得ない部分があるんじゃないかと想像して。


山中:たしかに。「史上最年少」とかについては「はい」って感じですね(笑)。結果論ですし。でも、若くないと価値がないって、昔は思い込んでいたようなところがあったかもしれません。


―いつの間にかそう思わされているときがありますよね。学生時代、世の中が求める「女子高生」みたいなものに、自らの振る舞いを寄せてしまっていたなと後から気づくとか。


山中:「いまが一番かわいい」みたいな語り口とかもありましたよね。でも実際に十年近く経った今を生きていると、女子高生のことを見もしなくて(笑)。別に一緒というか。


―ね。年齢って順番だし。


山中:そうですよね! だから何? と思いますね。でも一方で、人生の早いうちにいろいろ見させてもらって良かったな、という感覚もあります。「カンヌとか、こんなもんか」って。


―ウワー!


山中:「カンヌ! 権威!」みたいな自分が持っていたイメージと、実態としてあるカンヌという街で行われる映画祭のムードの違いって、やっぱり行ってみないとわからなかったことで。それに早いうちに気がつけたのは良かったです。この先、映画を作ることで何を目指していけばいいのかがわかるので(笑)。


―格好いい……。


山中:でも、私は映画がなかったら、本当に怠惰な人間なんですよ。それでいい、ということを思っているし、言いたい気持ちもあって。


―うんうん。


山中:『ナミビア』のなかでカナという人間が過ごすある一定の時間はもしかしたらすごく無意味に見えるかもしれないけど、別にそういう時期があってもいいし、一生それでも別にいい。混沌としていたっていいし。それを自分にも言いたくて。


諦め前提で、守りに入って正しい選択をしていく、みたいなことより、もうちょっと実存を生きようというような気持ちがあります。それは、自分が21歳のときには気づけなかったし、自覚できなかったことで。だからいま、そういう映画を撮ったのかもしれません。

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