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「ドイツ人目線」で読んだ小説『関心領域』の特異性とは?文筆家マライ・メントラインが紐解く

  • 2024年6月19日

Text by 森谷美穂
Text by マライ・メントライン

小説『関心領域』を通例の文脈で「あの映画の原作」と紹介するのにはいささか抵抗がある。というのも、特に日本では、公開当初から凄まじい訴求力を見せた映画版(ジョナサン・グレイザー監督)の存在感が大きく、隠喩に満ちたその内容の「解題」を求める意図で本書を手にする人が多いと予測され、その場合、キャラ構築や舞台設定など多岐にわたる差異により、読者が面食らうこと必至だからだ。


ありていにいえば『関心領域』とは、ナチス第三帝国に関する、ある「共通命題」を突く文芸作品と映像作品のユニット的名称である。双方、観念的な因果関係はあるがストーリーなど直接的な繋がりは絶妙に無い「別物」と認識したほうが良いだろう。少なくとも、受け手としてはそのようなスタンスで接したほうが有意義だ。かの名作『2001年宇宙の旅』の小説版(アーサー・C・クラーク著)と映画版(監督:スタンリー・キューブリック)の関係をさらに先鋭化させた感じといえばよいだろうか。

『関心領域』が突いた、ナチス第三帝国の「共通命題」について。これは、ホロコーストにおける加害者側心理のリアルとは何か? そこに渦巻いていた正常化バイアスの実相とは何か? というものだ。えっでもそれって、たとえば映画『シンドラーのリスト』とかでもちゃんと描かれてたじゃん? と感じる人も多いだろうけど、最新のナチズム / 社会研究の成果を踏まえるとこのあたり、じつはかなり様相が異なってくる。


旧来のホロコースト系コンテンツに登場するナチ側の人物はえてして(自覚・無自覚の別はあれど)冷酷で加虐傾向のある異常者としてキャラづけされることが多かった。そのほうが観客にわかりやすいためだが、近年のナチズム研究では、加害者側の大多数を占めた「普通の人びと」層の機能と心理性が重視されるようになってきた。


これまでの映画で描かれるナチキャラと異なり、われわれにも心理的にシンクロする余地の大きい者たちによる罪業。これに正面から取り組んだコンテンツは、すでにあってもおかしくなかったが、じつは無かった。少なくとも世間一般で広範に話題化した、鑑賞が容易な著名作としては存在しなかった。そこに『関心領域』の画期性がある。


なぜこれまで無かったのかといえば、ぶっちゃけ困難だからだ。加害者の心理がどうあれ、ホロコーストの強烈さは変わらない。ゆえに、異常者ではなく「普通の人びと」がなぜあれほどのことをやらかしたのか、というだけでも道理の説明ハードルが異様に高くなってしまう。しかし『関心領域』は、文芸面でも映像面でもそれをやりきって、しかも高評価を得た。そこに本作の凄みがある。


たとえばホロコーストの加害側が「殺害」のことを「処理」や「処置」と言い換えるなど、自らの所業を心理的にごまかすためさまざまな策を弄したことはよく知られているが、実際にそれが現場で、どんな表情で、どんな空気感のもとで使われたか、『関心領域』はそのあたりを緻密にシミュレートしており、ある意味、時代心理プロファイリングの試みとしても高く評価できるだろう。

まず、心理的駆け引きと欲望と抑圧的恐怖に満ちたストーリーを追うだけで、ナチス親衛隊組織の不可思議かつ不条理な力学を「時代精神の一つの象徴」として自然に掴めるようになっているのが印象的だ。


被害者側の代表として登場する強制収容所の遺体処理班(ゾンダーコマンド)の男も、従来のホロコースト系コンテンツに登場する煮詰まり系キャラクターの真髄ともいうべき存在感で、作中の心理情景に奥行きと説得力を添えている。また日本語版は田野大輔先生の監修により、ナチス関係用語や事実関係描写についても万全だ。


原作では3人の視点を用い、それぞれのモノローグで事実が綴られている。1人は、映画でアウシュビッツの司令官「ルドルフ・ヘス」として描かれていたパウル・ドル。残りの2人は、映画では描かれなかったアンゲルス・ゴーロ・トムゼン(合成ゴム工場勤務のナチスドイツ軍人)、シュムル・ザハリアシュ(強制収容所で遺体の処理を行なうユダヤ人)

本作はある意味、流動性の激しい疑似アッパーミドル階層の成り上がり+マウント合戦劇である。至近距離で歴史的な暴力惨劇が繰り広げられている点を除けば、タワマンを舞台に家族間でのマウンティングや伝統的マチズモ、愛欲地獄が見事に超展開する韓国ドラマ『ペントハウス』などと共通点が多かったりする。逆にいえば、そういったお茶の間ピカレスクドラマ的な状況に自らを没入させることが、特にナチ体制の「汚れ仕事」系の関係者にとってはきわめて強力な「正常化バイアス」の武器となった、といえるだろう。


映画版でも、収容所司令官の妻が収容所邸宅をまさにタワマン社宅扱いしていて「ここを出たくないのよ!」とゴネる場面があったが、じつはそういった心理描写の緻密さと濃度は、小説版のほうが遥かに高い。また、ジェンダー問題を含んで閉鎖的人間関係のドロドロをこれでもかと突く面もあるので、読書会など行なえば、それこそ「ダメダメ登場人物ランキング」談議で盛り上がること確実といえる。

忘れてはならないのは、もともと本書が「英国」現代文芸の精髄の一つとして評価されている点だ。先述した「わかりやすさ」「激しさ」「キャッチーさ」だけで、これほどの評判を得られるはずがない。


冒頭にはシェイクスピアの『マクベス』第四幕の一部が引用されており、早くも教養ありきで進行する深み感は存分にうかがえるわけだが、たとえば本書のなかでゾンダーコマンドが、自民族(ユダヤ人)にまつわるローマ時代以来の「戦い」と称される「迫害」について慨嘆した際に出現する「第三の国」の語なども見逃せない。あれは使用文脈からみて、中世の神学者フィオーレのヨアキムが理論づけた、聖三位一体(※)の三要素がそれぞれ歴史の終末までのプロセスに対応すると説く「三時代教説」で使用される語である。


その三時代のラスト、つまり、キリスト教説でいう「至福千年王国」の陰画としての「第三帝国」の存在感がここで強く示唆されており、もうこれだけでご飯三杯いけるほどの知的滋養感だったりする。こういう触発要素をさりげなく仕掛けてしまうあたり、やはり只者ではないなこのマーティン・エイミスという作家。


ミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』などと同様、本書は誰にでも容易に読めるが、そのうえで、要素を手繰りながらどこまでも深掘りできる作品ということか。じつに見事だ。


ドイツ人としてこの『関心領域』を読みながら、ひとつ痛烈に感じた点がある。それは「ドイツ人」として登場するキャラクターたちが、実際、内面的には極めて英国人っぽいということだ。これは知識とか言語の問題ではない。思考パターンと空気感とセンスの問題だ。

巻末の謝辞では著者が「当時のドイツ人の思考」について充分すぎるほどのリサーチを行なったことが読み取れるが、たとえば、本書の主人公にあたるアンゲルス・ゴーロ・トムゼン(ナチスドイツ軍人)と収容所司令官夫人が花壇でイイカンジになる場面で描かれている「ナチ」の心理と思考と世界視の感覚は、「現実は現実たる以前に設計としてこうあるべし」という演繹的・イデア規定的な思考と主張に走りがちなドイツ人に比べて、もうどうしようもなくイギリス経験論的であり帰納的なのだ。

「英国的」ナチ内面描写、これはこれで傑作として読めてしまうので、逆に大したものだと評価したいポイントではあるのだが、あえて極論をいえば、現実では実施されなかった英国上陸ゼーレーヴェ作戦が決行され、ナチスの軍門に下った英国を描いたレン・デイトンのSF小説『SS-GB』の世界、そしてその数年後、英国人が在イギリス親衛隊の高級将校となって絶滅・強制収容所を仕切るようになった、その世界での情景という印象が生じる。これはナチズムの根源的な問題を、より汎用的な内的言語で再構築してみせた、という面で重要な知的・文芸的成果といえる。


……が、しかし。同時に、近現代史学界にいまなお横たわる「ナチズム現象は、果たしてドイツ固有のものだったのか、あるいは世界のあちこちで起こりうるのか」という重要な命題に、かなり大きな一石を投じることになるかもしれない。少なくとも、私の友人である東京女子大の柳原伸洋教授は(映画版を観て)その点を気にしており、特にエンディングについて、そのどちらでもない「第三の解釈」が可能ではないかという仮説を立てていた。その後彼は小説版も読んだはずなので、議論してみる必要があるだろう。


なお、ドイツ語以外の内的言語によるナチズム再解釈にもいろいろあり、たとえば2010年『ゴンクール賞』最優秀新人賞を受賞したフランスの小説家ローラン・ビネの『HHhHプラハ、1942年』は、ラインハルト・ハイドリヒというナチス親衛隊最強の魔人について「その核心を探るため、あえてフランス人として」もし自分がハイドリヒだったらこうする、といった憶測を積み重ねながら歴史の追体験と再構築を試みる、ある意味「不完全さを前提とした」興味深い実験文芸だが、なぜか「ハイドリヒの真実を描いた伝記の秀作」として大評判になってしまった。

これはいわゆる司馬史観の問題とも共通する話だが、「史実と文芸の混同」という問題を再提起させた感がある。『関心領域』、特に小説版で収容所の名称も司令官の名前も架空のものとしたのは、こういった懸念への対策なのかもしれない。とはいえ実名使用に踏み切った映画版に問題があるわけでもない。さすがである。

ナチスは得てしてドイツ人ではない「第三者」によって描かれがちだが、ではドイツ人の内的言語でナチズムや親衛隊を語るとどうなるのか。邦訳が存在する作品では、『関心領域』巻末の参考文献でも挙げられているドイツ人ジャーナリスト、ハインツ・ヘーネの著『髑髏の結社 SSの歴史』がその好例といえる。


初版が1967年のルポルタージュであり、内容的に古いともいわれるが、「歪んだ論理の帝国」としてナチス親衛隊のドイツ的リアル感をこれほど的確に伝えるコンテンツはほかに例がない。なんというか、『関心領域』を印象派絵画とすれば『髑髏の結社』はドイツ表現主義アート的な感触だ。カフカ的ともいえる。要するにキモい。もしこれを小説化すると、読み心地以上に言葉のシンボル性の連鎖を重視するタイプの読者(私も含む)からは熱狂的に歓迎されるだろう。ただ、残念ながらそれでは商売的に引き合わない。


また、世の中にはなぜか他国人なのに第三帝国期のドイツ人を自然に再現できてしまう異能の人もいて、映画『ブレードランナー』の原作者として知られるアメリカのSF作家、フィリップ・K・ディックがそうである。近年、リドリー・スコットの手によりAmazon Prime Videoオリジナルとして映像化された、「第三帝国が勝利した世界」が舞台の長篇小説『高い城の男』に登場するドイツ人たちは、なぜか中身もスペック以上にリアルなドイツ人だったりする。そのなかで、日本の勢力圏に密使として派遣される国防軍情報部のドイツ人将校の「ナチズムとは要するに何なのか」を突き詰める独白が白眉なのだが、『関心領域』にも極めて似た感触の場面があった。詳細を記事末尾に表示する。


両者は、おそらく同じであって同じでない。ただ、同じものを見ながら書かれた文章だ、とはいえる。どこが違うかといえば、おそらく『関心領域』はギリギリ正気の河岸に立っており、『高い城の男』は一歩踏み越えた場所に立っている、ということかもしれない。それが最終的に何を意味するか、うかつなことはいえないが、英国の高級文学の精華とアメリカの通俗作家(というのが1962年時点でのディックの評価だった)の文章が、観念的にがっぷり心技体、いろんな面で互角に見えるという状況は極めて興味深い。そう、そういう知的考察の伸びしろという意味でも『関心領域』という言霊の含みはなかなか豊かだといえる。


ナチスがらみのコンテンツ、あなたは次にどこを自らの関心領域とするのだろうか?


「アインザッツグルッペンが百万人を優に超える人々をすでに銃殺したことはわかっている。彼らはどこへでも行っただろう──銃弾を携えて。想像してみてくれ。何百万もの女性と子供を。銃弾で。彼らには意志があった」
 おれは尋ねた、「何が起こったんでしょう……われわれに? あるいは彼らに?」
 ペータースは言った、「いまも起こっている。きわめて不気味で異様なことが。それを超自然的とは言わないが、それは単にわたしが超自然的な物事を信じていないからだ。超自然的な感じはする。彼らに意志はあったのだろうか? どこからそれを得たのだ? 彼らの攻撃性からは硫黄がにおってくる。まさに地獄の火のにおいだ。あるいはもしや、もしかしたら、それはきわめて人間的で、明白で単純なことなのかもしれない」
「それにしても、どうしてこんなことになったのでしょう?」
「もしかしたら、冷酷さは美徳だということを言いつづけると、こうなってしまうのかもしれない。ほかのあらゆる美徳と同様に、高い評価と権力によって報われるべきだと。どうなのだろう。死への欲求は……全方向に及んでいる。強制的な中絶、不妊手術。安楽死──何万人もの。死への欲求はまさしくアステカ族のそれだ。黄金期の」
「では、現代性と……」
「現代的であり、未来的でもある。ブナ‐ヴェルケが、ヨーロッパ最大にして最先端の工場であるはずだったように。それは、信じがたいほど古いものと混ざり合っている。われわれがマンドリルやヒヒだった時代にさかのぼる」
- (引用元:マーティン・エイミス著、北田絵里子訳、田野大輔監『関心領域』早川書房 2024年刊)
 彼らの観点──それは宇宙的だ。ここにいる一人の人間や、あそこにいる一人の子供は目に入らない。それは一つの抽象観念だ──民族。国土。血。名誉。りっぱな人びとに備わった名誉ではなく、名誉そのもの。栄光。抽象観念が現実であり、実在するものは彼らには見えない。〝善〟はあっても、善人たちとか、この善人とかはない。時空の観念もそうだ。彼らはここ、この現在を通して、その彼方にある巨大な黒い深淵、不変のものを見ている。それが生命にとっては破滅的なのだ。なぜなら、やがてそこには生命がなくなるから。かつて宇宙には微塵と熱い水素ガス、それしかなかった。その状態がまたやってくる。いまはただの幕間、ほんの一瞬間にすぎない。宇宙的過程はひたすら先を急ぎ、生命を粉砕して花崗岩とメタンに還元していく。すべての生命は運命の車輪から逃れられない。すべてはかりそめのものだ。そして彼らは──あの狂人たちは──花崗岩に、微塵に、無生物の渇望に応じている。彼らは造化を助けようとしている。
 その理由は、おれにはわかる気がする。彼らは歴史の犠牲者ではなく、歴史の手先になりたいのだ。彼らは自分の力を神の力になぞらえ、自分たちを神に似た存在と考えている。それが彼らの根本的な狂気だ。彼らはある元型にからめとられている。彼らの自我は病的に肥大し、どこでそれが始まって神性が終わったか、自分で見分けがつかない。それは思い上がりではない、傲慢ではない。自我の極限までの膨張だ──崇拝するものと崇拝されるものとの混同。人間が神を食いつくしたのではなく、神が人間を食いつくしたのだ。
 彼らが理解できないもの、それは人間の無力さだ。おれは弱くて、小さい。宇宙にとってはなんの意味もない。宇宙はおれに気づかない。おれは気づかれずに生きている。だが、どうしてそれが悪い? そのほうがましじゃないのか? 神々は目につくものを滅ぼそうとする。小さくなれ……そうすれば、偉大なものの嫉妬をまぬがれることができる。
- (引用元:フィリップ・K・ディック著、浅倉久志訳『高い城の男』早川書房 1984年刊)

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