専業主婦をやっていたら「誰が食わせてやっているんだ」という態度を漂わせ、仕事を始めれば不機嫌をまき散らす夫。家族のために専業主婦になった女性は、いつしか「夫の扶養から外れる」ことを目標に仕事にまい進した。そしてついに、その時が来る。
ここへ来てにわかに「103万円の壁」が話題になっている。
所得税が発生する年収、さらに社会保険料がかかる年収、そして主婦(主夫)の場合は、配偶者の扶養から外れる年収など、収入にはさまざまな段階で、税金や社会保険などがかかってくる。103万円のみが「壁」というわけではない。
人生は計画通りにはいかない。特に結婚後は。
パートナーを得て、人生は豊かになるが、半面、思うようにならないことも増えていく。子どもができればなおのこと。それでも自分の意志を貫きたいと思う女性はいる。
■結婚後も共働きがマストのはずだった
「私の人生、予想外のことばかりです」
そう言って笑うのはミエさん(45歳)だ。結婚するより仕事をしていたい。そう思っていたのに28歳の時に、5歳年上の男性と結婚した。
「大恋愛しちゃったから。結婚しなくてもよかったけど、彼はきちんと結婚したいと。そこは譲るしかありませんでした。彼と一緒にいたい。その思いが強くて」
結婚後も共働きを続けたが、子どもが産まれて状況が変わった。双子の女の子だったのだ。しかも二人とも小さく産まれ、長女は1歳になる前に手術が必要だった。
「さすがに私も、小さな命の前には自分の意志を曲げざるを得なくて退職しました。それからは完全ワンオペでしたね。保育園にも預けられなかったから、二人抱えて病院に行ったり、長女の入院に付き添う時は、どうにもならなくてベビーシッターさんを頼んだこともあります。貯金を取り崩した時期もありました」
■「金がかかるな」と夫がつぶやいた
それというのも、長女に先天性の病気があって手術をしなければならないと判明した時、夫がふっとため息をついて「金がかかるな」とつぶやいたことが、ミエさんには引っかかっていたのだ。
「娘にお金をかけたくないんだろうと思いました。夫への気持ちはそこでサーッと引いてしまったんですが、とはいえ会社を辞めてしまった私に双子の娘を育てていくことはできない。
会社を辞めなければよかった、両親にわがままを言ってもよかったとも思いましたが、実は私は生みの親がいないんです。養親には恩がありますから、わがままを言える状態ではなかった……」
そんな事情もあって、倹約しながらなんとかお金をひねり出していた。幸い、3回の手術を経て長女は回復、小学校に上がるころには誰よりも元気になっていた。
さて仕事に復帰だと思ったが、7年のブランクは大きい。社会人としてやっていけるだろうかとミエさんは悩んだ。
■子どもを学童に入れてパート勤務を開始
娘たちを学童に入れて、まずはパートから始めた。専門的な技術をもっていたため、そのスキルアップを図りながらのパート勤めだ。
「幸い、その職場でいろいろ教えてくれる人がいて、学校に通わなくても自然とスキルアップができました。あとは独学で頑張っていくしかなかった」
1日数時間の勤務から、週に3回6時間ずつと少しずつ増やしていった。
「働き出したことを夫に伝えたら、『そういうのって、普通、まずオレに相談しないかな?』と言われました。でも私が専業主婦のころ、夫は『こっちだってワンオペだよ。きみは仕事を続けると言ったのに』と言ったんですよ。だから働き始めたのに。
夫はものすごくモラハラするというわけではないんだけど、言葉の端々に『世帯主はオレ』『オレの稼ぎで家族は生活できている』という意識が見え隠れするタイプ。まあ、それも立派なモラハラだと思いますけどね。だから夫には何も言わないようにしようと私もだんだん心が頑なになっていった」
■「扶養から外れる」と伝えたら夫は……
4年前、「いっそ正社員になれば」と会社が声をかけてくれた。まじめに一生懸命働いてきたことが報われた。ミエさんはようやく心に明かりがともったような気がしたという。
「正社員になりますと返事をして、帰宅後、夫にそのことを伝えました。扶養から完全に外れるので会社に手続きをしてほしい、と。
すると夫はちょっと戸惑ったような表情になりました。『なんだか家族じゃなくなるみたいだな』って。何を言ってるんだ、この人はとムッとしました。自分が扶養しているから家族だと思っているんだろうかと。支配が及ばない感じになるのが嫌だったのかもしれないと感じてゾッとしました」
その後、夫は「きみが扶養を外れるほど稼ぐのなら、生活費は少し落としてもいいよね」と言い始めた。
「今でさえ夫がくれる生活費では足りないこともしばしばなんです。でも私は足りないと言いたくないから、自分の収入で補ってきた。家計全体を見ることもなく、出し渋る夫にはゲンナリしています。生活費は今まで通りでお願い、子どもたちにも今後、お金がかかるからと自分でも驚くくらい冷たい声で言いました」
扶養から抜け、ミエさんは脱力するほどホッとし、自分が自分に戻れたような気になったという。役割分担をしてきただけなのに、やはり「食べさせてもらっているという感覚を夫に植えつけられた」ことが苦しかったのだ。
■次は「夫というストレッサーからも外れたい」
2年後、子どもたちが18歳になったら、もう一度人生を考え直そうとミエさんは決めている。定年は65歳だが、その先も会社にいることはできそうだ。あと25年は働けるとミエさんは言う。だったら離婚という選択肢もあるはず。
「あの大恋愛は何だったのかと思うほど、結婚生活は味気なかった。特に子どもが産まれてからの夫は、私と子どもたちをやっかい者だと思っているのかと疑うこともありました。でも過去を振り返ってもしかたがない。先を見て、子どもたちの進路が決まったら、扶養を外れることに続いて、夫というストレッサーからも外れたい」
仕事を始めて本当によかった。あのまま専業主婦でいたら、私は今ごろ、メンタルを完全にやられていたかもしれません。ミエさんはそう言ってニッコリ笑った。
▼亀山 早苗プロフィール明治大学文学部卒業。男女の人間模様を中心に20年以上にわたって取材を重ね、女性の生き方についての問題提起を続けている。恋愛や結婚・離婚、性の問題、貧困、ひきこもりなど幅広く執筆。趣味はくまモンの追っかけ、落語、歌舞伎など古典芸能鑑賞。
亀山 早苗(フリーライター)