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三木道三が盟友・MINMIと打ち上げる新作「花火」の制作秘話と今後の夢とは

  • 2021年9月3日
  • Walkerplus

「Lifetime Respect」で日本レゲエ史上初のオリコン1位を記録し、ジャパニーズレゲエ界を牽引してきた三木道三(a.k.a DOZAN11)が、下積み時代から親交があるMINMIと共演する「花火」を8月8日に配信リリース。レゲエ界のキングとクイーンが遂に共演した渾身の作品とあって、リリース早々に大きな反響を呼んでいる。

本作は、MINMIの真骨頂であるソカを基調とした、夏の気分をブチ上げるメロディアスな応援歌となっており、ライブコミュニケーションアプリ『Pococha(ポコチャ)』を使った新しいスタイルで生まれたという。その制作過程や2002年の引退からDOZAN11名義で復帰した現在の展望について、たっぷりと話を聞いた。

■アプリを使って楽曲制作を配信!今だからこそできる新しい音楽の作り方
――今回の「花火」をMINMIさんと制作にいたった経緯についてお聞かせください。

「そもそもは、去年の10月7日に僕がライブコミュニケーションアプリ『Pococha(ポコチャ)』を始めて配信をしていたんですよね。これがおもしろくて、25年くらい前から親交のあるMINMIにも勧めてみたら彼女も今年の6月頭から始めて。そしたらある日、MINMIが配信をしながら曲を作ってたんですよ。それを見て『曲を作っている過程を聴かせてるの!?』って驚いたんです。しかも作っていた曲のテーマが“花火”で、花火は夏の風物詩であると共に、『Pococha』の中では配信者であるライバーを応援する高額アイテムのひとつなんですよ。曲はノリノリだし、配信も盛り上がるので素晴らしいなと思って、『僕が歌ってる男性バージョンだったり、コンビネーションバージョンとか作ろうよ!』って配信中にコメントしたんです。そしたら『いいですね!データ送りますね!』ってところがスタートで」

――すごくラフな感じで始まったのですね!

「おもしろいですよね。それで僕も『Pococha』で歌詞を『これと、これどっちがいいかな?』ってリスナーに聞きながら作ってみたり。『とりあえず、歌を吹き込んでみたから、まだ完成してないけど聴いてみて』って流してみたら『めっちゃいい!』って早速コメントで反響がもらえたり、レコーディング風景も見せてみたりとライブ感のある制作になりましたね。なので、今までとは全く違う、発売前からみんな何回も聴いてくれてるような状態でのリリースになりました」

――リスナーさんと一緒に作っていくような側面もあるのですね。

「全く一緒に作ったというと語弊があるかもしれませんが、みんなに聴いてもらいながら意見をもらいながら作ることはできたと思います。制作過程も見ていただきながら作るというのは新しい音楽の作り方だったんじゃないですかね」

――ご自身にとってもかなり新鮮な制作になったのですね。

「オンタイムで、感想をもらいながらなんて初めてでしたね。僕のリスナーにとっても、30代半ばぐらいから50代の方もいるのでまだまだ新しいメディアに驚きもある世代ということもあり、当初は『青春の人が名前を呼んでくれる!』って『Pococha』にみんな驚いてました。もう今はみんな慣れた感じで接してきてくれますけど(笑)。僕でいうと、井上陽水さんが配信で『DOZANさん、元気ですか?』と言ってくれるようなもんですからね。それはもう嬉しいし驚きますよ。そういうことが、今はもう普通に起こりうる時代なんだなと」

――新鮮だからこそ、今までと勝手が違って難しいところもありましたか?

「歌詞でいうと、バーっとすぐにできちゃうこともあれば、正解がいくつかあって迷う時があるんですね。そういう時って、いつもは身近な人に聞いたりするんですけど、今回はその相談相手がリスナーさんで、そのなかで意見が別れたんです。そうなると、どちらかを選ぶと一方の意見の人たちは残念がるのかなぁと考えたりしましたね。あとは、曲って作り始めてから半年ぐらい普通にかかったりするんです。けど、今回はリスナーさんも随時過程を見てくれているし、夏の曲だし『あの曲どうなったんかな』ってならないようにスピード勝負だったので、データをもらってから2ヶ月かからずにリリースまでいきました。楽曲制作自体の大変さというよりも、ミュージックビデオがまだできていなかったり、リリースのプロモーションなど他のことが配信のスピードに追いついてないので、そのあたりはこれまでにない特殊な制作になりました」

■「遂に実現できたね」MINMIとの共作に込めた特別な想い
――レコーディング風景も配信されたということでしたが、普段スタジオにこもって収録する時とは意識的にも違ってきましたか?

「気持ち的にはそんなに変わらないんですけど、ライブ配信なのでテレビみたいにカットや編集ができない点は違っていたかなと。例えば、イントロ部分を今回は一番最後に録ったんですけど。僕のイントロトークで『天まで届け』という言葉があって、これは2年前に他界したMINMIとの共通の友人である麻苧俊宏へのメッセージなんです。僕にとっては高校時代からの親友なんですけど、彼は大阪を拠点にレーベルやスタジオなどを運営している「カエルスタジオ」の創業者であり、関西レゲエでは知らない人がいない立役者なんですね。MINMIにとっては、まだシンガーになる前からの親交があって、初レコーディングも彼のレーベルからだったりするので、そのイントロトークを録り終えたら涙腺が崩壊してしまい…。生配信だから、画面から逃げながら涙を隠す、オンタイム編集なしだからこそのドラマがあったりしました」

――メッセージを込めようというのは、当初から考えていたのですか?

「歌自体が先にできていて、後からMINMIから『イントロで声を入れてよ』という話になり。それで僕が彼にも届けたいなと思って入れました。というのも昔、彼がMINMIに『三木と一緒にやったってや』という話をしていたそうなんです。ただ、僕が2002年に歌手活動を引退して、その年にMINMIがメジャーデビュー曲『The Perfect Vision』でヒットしたので、メインで活動していた時期が僕たちは重なっていなかったから一緒にやる機会がなくって。なので、彼が生きてる間には実現できなかったけど、『ついに彼が言ってたことが実現できたね』って二人で話をしてました。知ってる人は知ってるんですけど、そいういドラマもあるんです」

――2002年に活動を引退されてから、復帰後は三木道三としてではなく、DOZAN11名義で活動してきたされてきたかと思います。それが今回、久しぶりに「三木道三」名義を掲げてのリリースとなったのは、やはり特別な思い入れがあってでしょうか?

「実はそこまで強い意味を込めたわけではないんですよね。MINMIのチームから、プロモーションをどうするかという話になった時に『三木道三じゃだめなんかな?』と打診されたのでちょっと迷ったけど結局『いいよ』と答えた感じで。今でも三木道三として呼ばれることがあるので、その度に『今は名前が変わってるんですよ』と。『僕に三木道三というのは、デーモン閣下に改名したのに、(デーモン)小暮さんというようなもんですよ』とよく言ってたり(笑)。とはいえ、過去にその名義で出してたから否定するのも違うし、イベントのフライヤーなんかでお願いされたら『ex 三木道三』って感じで出したりもしてましたから。その方がわかりやすいしね、今回もその延長のようなイメージです。そもそも三木道三の由来である、僕が好きな戦国武将の斉藤道三とか葛飾北斎も、生きてる間に何回も名前を変えてます。そんなノリで、過去の名前に特に執着はなくって。インパクトあるなら、それでもいいよねという感じで使うことになりました」

――実際に完成した音源を聴いて、率直なご感想はいかがでしたか?また、リリース後の反響はいかがでしたでしょうか?

「個人的には、すごいもん作ったなと驚きましたね。MINMIはソカという音楽ジャンルの第一人者として評価を得ていると思うんですけど、今までも『これぞソカ!これぞ夏!これぞMINMI!』という曲を出しているのに、それを超えてくるものを今作で出してきたので、MINMIは本当にすごいなと。反響としては、歌詞にもある通り『めちゃくちゃアガル!』と言ってもらえてます。個人的には、この曲がライブ配信から生まれた初のヒット曲になるといいなと思ってます。今まで、YoutubeやTikTokから生まれた人気者もいればヒット曲もお金持ちもいると思うんですけど、まだライブ配信発のヒット曲って聞かないので。MINMIと一緒に作ることができた、個人的にも特別な思い入れのある曲でもあるので、この『花火』がそういう風に広がっていくとうれしいなと思います」

■サンバに魅了されブラジルへ。活動復帰までの12年
――今回「花火」をリリースされるにあたって、2002年に歌手活動を引退されてから2014年にDOZAN11として活動を再開されるまでの期間を経たからこそ、これまでと考え方やアプローチで変化した点についてお聞かせください。

「少なくとも2002年からステージ復帰まで12年…、オリンピックで言うと3回分経ってますからね。年齢も立場も変わっているので、いろんなことが変わりました。例えば、最初に引退するまでは、必要最低限の音楽の知識だとかを持ち合わせずにやっていたところがあったんです。それがその後、僕もプロデューサー的になって、制作全般のことをみる責任もあったので音楽の勉強を最低限しました。そこで得た知識などを生かして、画像から音楽を自動作成するアプリ『mupic』の開発することに繋がったり。あとは、サンバの修行をしてみたりね」

――サンバですか?

「2002年に日本と韓国で共催した、ワールドカップの決勝を横浜スタジアムに観に行ったんですよ。その時に、ブラジルの応援団を生で体験したり、帰りの電車がサンバトレインみたいに盛り上がっているのを目の当たりにして最高やなと思って、2・3ヶ月後にブラジルに行ってリオデジャネイロのカーニバルに行ってみたんです。そしたらもうサンバの歌詞にハマっちゃって、後からリズムやコード感の魅力にも気付いて、『オレ、遠回りしてたかも』とサンバにのめり込むことになったんです。それから、2年ぐらいはサンバしか聴けなくなったんですよね」

――すごいフットワークですね!

「それから、今度はカリブ海にあるトリニダード・トバコにもカーニバルがあるということで行ってみたんです。そのトリニダードのカーニバルで流れていた音楽が、今回の『花火』のベースとなるソカという音楽なんですよ。そっからもう、ソカにのめり込んでそこから2年ぐらいソカしか聞けない時期がありましたね。ちなみにトリニダードは、僕のやってきたレゲエの本場であるジャマイカと同じカリブ海にあるので、その影響を受けていて。ラガソカ(ダンスホールレゲエから影響を受けたソカ)と言っていいような、ミックスされたジャンル感の曲もあります。それから日本に帰ってきてから、ブラジル人に『リオのカーニバルとも違う、オリジナルなカーニバルだった』と報告したら、ブラジルにも同じような音楽やカーニバルのスタイルがあるよと聞いて。リオの北の方にある、そのバイヤというところのカーニバルにも行ってみたりしました。リオ、トリニダード、バイヤが3大黒人カーニバルなんですって」

――サンバ修行からソカを学び、今作にも繋がっていくことに。ちなみに、サンバの歌詞のどういうところを好きになったのですか?

「レゲエって、ラブ&ピースを連想する人が多いんですけど、実はぜんぜんそんなことないんですね。ラブ&ピースも歌うけど、日本で浸透していたイメージはどちらかというと昔のカリフォルニアのヒッピーの印象だと思うんです。僕らがやってきたラップスタイルのダンスホールレゲエはというと、もっと日常の会話の中で下ネタとか武勇伝とか、下品であったり暴力的であったり、差別なところもある男同士でヤイヤイ言うてウケる話がメインなんですよ。今でこそ廃れましたけど、当時は差別的なテーマも多かったですからね」

――日本で持つレゲエの一般的な印象と全然違いますね。

「それに比べて、リオのカーニバルは市が開催している国際的なイベントで、規制もあるため歌詞に暴力性や下品さが全然ないんです。なので黒人の苦難の歴史や愛国心、各国の偉人を称える歌詞などポジティブな歌ばかりですばらしいなと、好きになりました。トリニダードのソカのカーニバルの音楽だからか、アガろうとか踊ろうとかポジティブな歌ばかりです」

――音楽的には、サンバやソカ、レゲエは近いところはありましたか?

「共通点は、16ビートのダンスミュージックだということと、歌い手の声が凄まじいということとかかな。あとは、ループ音楽というところですかね。違いは、ジャマイカのレゲエは、うねるようなベースが特徴的なんですが、サンバはベースがなくて太鼓。それを聴いて、ベースは太鼓の代わりに生まれたんだなと再認識できたりもしました。その他にも、とはいえ、サンバはやはりジャマイカのレゲエとかなり違うカーニバルのスタイルなので、それにハマっていた僕は、なかなか元のレゲエミュージシャンに戻れなくなっていたんですけど、ソカを経由したことでカリブで繋がり、新しい世代のレゲエもカッコ良いのが色々あって、これなら自分もまたやりたいなと思えて復帰できました。レゲエミュージシャンとして再始動してみるまでに12年かかりましたね。その間に、体の不調とかもあったんですけどね。音楽的にはそんな変遷がありました」

――今後は、サンバを取り入れた音楽やライブをされる可能性も?

「レゲエの次は、今度はサンバを日本に持ってきたいなと思っていました。だけどなかなか実現できなかったのは、クラブミュージックでターンテーブルを使うレゲエに比べて、サンバは生演奏かつ打楽器隊だけで100人ぐらいで演奏するんです。僕が行った時は、1チームで多くて4000人がパレードをするような規模なんですよ。楽しみ方の規模が違いすぎて、なかなか日本であのスケールを再現するのは難しいなと思いました。とはいえ、サンバやソカに触れたのは、リズムの取り方とか自分の音楽考察の中でたくさん吸収できたので、それが今活きていると思います」

■ジャパニーズレゲエのパイオニアとして新しい道を提示
――今作はもちろんですが、今後どんな音楽をリリースされるのか、ライブをされるのかとても楽しみです。

「どうなっていくのか自分でもまだわからないです。新型コロナが流行してから、ライブが全部なくなって。それもあり『Pococha』を始めてみたり、その前にはYouTube Liveやインスタライブで発信していたんです。同時に、去年の春頃から暖かさを感じるとあちこちがピリピリ痛くなる病気が発症したんですよ。コリン性蕁麻疹といって、アセチルコリンという汗をかく物質に反応して起こる症状みたいなのですが、車で外に出た時も痛くて運転できないような状態で。駐車場に向かうだけでも痛くて、ライブどころか日中は移動すらできないドラキュラみたいな生活をしないといけない状態になったんです。これで『また引退するしかないか』とも考えたんですが、音楽もさらに好きになって知識もついてきて、今度引退したらもう復帰は難しいだろうと思うとそれは嫌で。それで、オンラインでできることを始めて今に繋がっています」

――ライブ配信に力を入れられてるのには、そういった経緯があったんですね。

「最初は、やったことないけど広瀬香美さんみたいにYouTubeで弾き語りをあげてみたいな、と思ったんですが、弾き語りのやり方があまりわからなくて(笑)。その練習から配信してみたら投げ銭をいただけて、あれ?これ仕事になるやん、と。そのうち『Pococha』を知り、『Pococha』のランキングもガーっと上まで上り詰めたので、後輩たちにも教えてあげて。彼らも子供がいたりするけどライブがないから、『どうしてるんや。大丈夫か?これやってみ。可能性あるぞ」とセーフティーネットとして勧めて回って、今はレゲエ界でも『Pococha』ブームになってます」

――今の時代にあった新しい音楽活動のモデルになりつつあるのですね。

「僕は仕事になるかわからなかったジャパニーズレゲエを始めて、仕事になるまで広めてメジャーにしたひとりでもあるので、日本のレゲエ人の中では僕がほぼ最年長なんですよ。この先の歴史もなければ新しいビジネスモデルもまだないんです。だから、新しいモデルを作って少し後ろの世代に道を作りたいなという思いもあります。もちろんもっと若い新世代もいろいろ登場していてその人たちの行き先までは示せませんが。例えば今人気が出てきてる女性アーティストの775とか、『よってらっしゃい』という曲で〈ラジオで聞いた三木道三 4歳児の頃からいい女〉と歌っていて、その歌詞に合わせた動画が、TiKTokでバズったりもするから面白いです。僕はできたスタイルやポジションを維持するより、これ新しいな、おもしろいな、と感じたらどんどんそっちに向かっていっちゃいます。そもそもレゲエが、当時は一番新しくて面白いものだったんです。今は『Pococha』で配信しながらの弾き語りライブで全国ツアーを回ってみるというのが、ひとつの夢です」

――配信をしながら、生でも聴けるような?

「そうですね。チケットを買って入場してくれた人に、席で『Pococha』を付けてもらって、楽屋にいる僕がステージに立つまでも見られる。もちろん、会場に来れない人も全国、それどころかアメリカやジャマイカからでも『Pococha』を通して参加してもらえて、会場の人もオンラインの人も投げ銭を投げて応援できたり、僕もコメントやリクエストに応えられる、双方向のライブがあっても面白いなと。収益もダブルで上がるし、アーティストとして弾き語りは憧れでもあり楽しいので。こういう時代だからこそ、後輩たちにこういう新しいライブの形もあるよと伝えていきたいです。そうやって、日本のレゲエ界で新しい活動スペースを作っていくような活動もできたらいいなと思ってます」

取材・文=大西健斗
撮影=木村華子

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