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心臓や肺を「元に戻せる薬」の治験が視野に、再生医療の最前線

  • 2025年6月3日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

心臓や肺を「元に戻せる薬」の治験が視野に、再生医療の最前線

 1986年の映画『スター・トレックIV 故郷への長い道』には、船医のドクター・マッコイが透析を受けている患者に1錠の薬を飲ませると、たちまち新しい腎臓ができてくるという場面があった。これは再生医療の見果てぬ夢だが、実現するのはなかなか難しい。

 病気によって心臓や肺などの重要な臓器が傷ついた場合、医師はせいぜい損傷の悪化を食い止めることしかできない。けれども今、30年におよぶ試行錯誤の末に、患者の体内の幹細胞を活性化させて臓器を修復させる治療法が実現する可能性が高まってきた。

 幹細胞は、機能を持つ細胞のもとになり、組織の成長や修復を担う細胞を生み出す。米国の非営利研究機関、スクリプス研究所は、薬を使って体内の幹細胞を増殖させる、まったく新しいアプローチを開発している。すでにこの手法によって、実験室の細胞、マウス、ブタ、数人のヒトの死んだ組織を蘇らせることに成功している。

 一方、実験室(体外)で再プログラミングした幹細胞を移植して新しい組織を成長させる従来のアプローチで、ようやく成功を収めつつある研究者たちもいる。

 順調にいけば、これらの手法でいつの日か、変形性関節症など、老化と関連した深刻な病気を抱える人々の生存期間と生活の質を劇的に改善できるだろう。

 今ある薬の多くは、肺や心臓を損傷させる病気の進行を遅らせる効果しかないが、新しい薬の目的は損傷を回復させることにある。「私たちはあと2〜3年で、肺や心臓の損傷を回復させられるようになる可能性があります」と、スクリプス研究所の最高経営責任者(CEO)兼社長であるピート・シュルツ氏は言う。

 この治療法の研究に携わる科学者は皆、安全性と有効性を確認するためにはまだヒトでの実験が必要であり、医療技術として承認されるまでに10年はかかるだろうと言っている。それでも彼らは、再生医療は多くの失敗を経て、ようやく峠を越えたと考えている。

体内の幹細胞を刺激する

 スクリプス研究所では、薬の候補となる膨大な種類の分子の中から、臓器にある幹細胞(体性幹細胞)を刺激する分子を探し、肺、心臓、関節、目の健康な幹細胞を増殖させる物質を特定した。

 下気道の2型肺胞上皮細胞(AEC2)という幹細胞は、酸素と二酸化炭素とのガス交換を行う重要な細胞を作っている。健康な人の体内では、損傷したガス交換細胞は新しい細胞とどんどん置き換えられてゆくが、慢性閉塞性肺疾患(COPD)や特発性肺線維症(IPF)などの病気で、あるいは山火事の煙や新型コロナウイルス感染症などで肺が傷ついた人では、この置き換えプロセスが阻害されてしまう。

 スクリプス研究所で開発中の薬は、このAEC2細胞を活性化させる。

次ページ:心臓発作後のブタの心臓を修復する

 肺線維症のマウスを使った研究では、この薬を週に1回吸入することで、AEC2幹細胞を刺激し、肺の損傷を修復できることが示されている。現在は、約70人の健康なヒトを対象とする安全性試験が進められていて、その後、肺線維症の患者を対象に加える計画になっている。

「薬を使って肺の幹細胞を刺激するという治療法は、さまざまなところで行えるので、ゲームチェンジャーになる可能性があります」と、米エール大学医学大学院の比較医学・遺伝学の専門家であるマウリツィオ・キオッチョリ助教は評価する。「肺の細胞を直接標的とする薬を吸入すればよいので、使うのが簡単なのです」。なお、キオッチョリ氏はスクリプス研究所とは関わっていない。

心臓発作後のブタの心臓を修復する

 スクリプス研究所では、心臓発作後の心臓の組織を再生させる別の薬も開発している。

 狭くなった血管をステントと薬で再び開通させ、血流を回復させる現在の技術は、米国で心臓発作による死亡率を数十年前に比べて半分以下に減らしている。しかし、「生存率は劇的に改善されましたが、心臓にはまだ多くの死んだ筋肉が残っています」と、米デューク大学の心臓専門医リチャード・スタック氏は説明する。

「機能していなかった部位を再び拍動させることができれば、私たちは本当の意味で治療できたことになります」。スタック氏はこの薬の開発についてスクリプス研究所に協力しているコンサルティング会社、心血管マスターズ・コンソーシアムのマネージング・パートナーでもある。

 スクリプス研究所が開発中の薬はハイドロゲル状で、心臓発作の数日後に心筋を包む袋状の膜に注入される。この薬は、心臓が成人のサイズになってから休眠状態になっていたタンパク質経路を活性化させる。それにより、新たに活性化された幹細胞は健康な細胞を作り、心臓の損傷部位を埋めてゆく。

 スクリプス研究所によれば、この薬は実験用のマウスと数頭のブタに効いたというが、論文は発表されておらず、査読も受けていない。

 あるブタの画像検査では、心臓発作後に急激に下がった駆出率(血液を送り出す能力)が、治療後1カ月で正常に戻ったことが明らかになった。現在、ブタでのさらなる試験が進められていて、ヒトでの臨床試験は2027年に開始される予定だという。

 スタック氏は初期の動物実験の結果に「度肝を抜かれました」と言う。「この分野で44年間働いていますが、これほど劇的な結果は見たことがありません」

心筋を作って移植する従来型のアプローチでも成功事例

 一方、米南カリフォルニア大学ケック医学大学院イーライ・アンド・イーディス・ブロード再生医療・幹細胞研究センターの所長であるチャック・マリー教授らは、成人の血液幹細胞を再プログラミングして心筋細胞にし、それを移植している。数十年の地道な努力が実り、この手法はついにうまくいった。

「私たちは心臓に新しい筋肉を作り、心臓の機能を向上させることができています。これこそ科学です」とマリー氏は言う。なお、マリー氏もスクリプス研究所とは関わっていない。

次ページ:今ある課題、これからの課題

 幹細胞から作った心筋細胞を移植する手法は、マウス、ラット、モルモット、ヒト以外の霊長類、ブタで試験されており、2027年にはヒトでの臨床試験が始まる予定だ。「私たちは、予想される主な障害はすべて乗り越えたと言える合理的な根拠があります」とマリー氏は自信を見せる。

 彼らが直面した最後の難関は、アカゲザルでの試験で、移植後数カ月は新しい細胞の拍動が速すぎて動悸を引き起こしてしまうことだった。しかし、サルに心臓のリズムを調整する薬を与えるか、移植前に細胞に遺伝子編集を施すことで、この問題は解決した。

 2024年7月に発表された論文では、心臓発作の後で治療を受けた2匹のサルは移植された細胞を問題なく受け入れ、その心臓は損傷などなかったかのように正常に拍動しているという。

今ある課題、これからの課題

 薬を使って体性幹細胞を刺激するアプローチにも挫折がないわけではない。スクリプス研究所は、変形性関節症の治療のために幹細胞を標的として新しい関節軟骨を作ろうとしてきたが、最終段階を迎える前に壁にぶつかってしまった。

 この薬は、動物モデルでは幹細胞に新しい関節組織を作らせる効果を示せた。ところが未発表の研究によれば、初期段階の臨床試験で60人の膝にこの薬を注射したところ、意味のある変化を生じさせるほどの量の軟骨は形成されなかったのだ。スクリプス研究所は、より長く持続する薬が開発されるまで、これ以上の研究は行わないとしている。

 スイス製薬大手ノバルティスも軟骨の再生を促進する薬を試験中で、20人あまりの患者を対象とした小規模の安全性試験を成功させている。同社は現在、より多くの患者を対象に安全性と有効性を検証しているところだが、その進捗について公式なコメントは出していない。

 再生医療のゴールはこれまで以上に近づいているが、新たな課題も出てくるかもしれない。その1つは、がんにつながりうる過剰な刺激を細胞に与えてしまうことなく、必要な組織を成長させるというバランスをとることだ。

「今後の真の課題は、いつ、どこで、どの程度活性化させれば、予期せぬ結果を引き起こすことなく修復を促すことができるかを解明することです」とエール大学のキオッチョリ氏は言う。

 これまでのところ、小規模の安全性試験やマリー氏のブタでの試験では、心臓や他の臓器に異常な細胞は見つかっておらず、科学者たちは胸をなでおろしている。

「何十年にもわたる実験の末に、ようやく、人々に再び質の高い生活を送るチャンスを与えるような方法で、傷ついた臓器を修復できるようになる日が見えてきました」と言う。「それこそが本来の再生医療なのです」

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