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Vol.157 頭の中の理想と実際に自分ができることの間には、じつはけっこう隔たりがある人が多いんですけど…

  • 2014年10月16日

 みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。

ソーシャルネットワーク 前回は、ソーシャルメディアなどで発信される社会的な取り組みやメッセージに接したときに、すごく攻撃的な反応を示したり、あるいはすごく断定的にその意味を否定する人が少なくないということを最後に書きましたが、それは社会に対してやりたいと思っていることと実際にできることとのバランスがとれていないからなんじゃないのかなと僕は思っています。あるいは、実際に何か行動するということをやってないから、“オレならもっとできるはずだ”というふうに感じる人が多いんじゃないでしょうか。

 僕は思うんですが、困ってる人をどんなふうにどれくらい助けるか、というのは人それぞれでいいんですよね。だから、その人の事情のなかで具体的に何か人の助けになるようなことをやれていないということがあったとしても、それはなんの問題もない普通のことだと僕は思います。しかし、自分が何もやれていないということを引け目に感じて、その意識が逆に人に対する攻撃性を強めているような人をあちこちで見かけます。極端な話、一銭たりとも人のためには使わないという人がいるとして、それの何が悪いのか、と僕は思うんですよね。それから、僕の知り合いに「誰かに寄付したら、他の同じような人にも寄付しなきゃいけなくなるから、誰にもしない」という人がいました。なるほどな、と思いました。多分この人は優しくて、断る理由がなくなるのを恐れているのだと思います。でも、別に寄付したってしなくたっていいんだから怖がることないんじゃないかな、と今は思います。あるいは、AWSの活動に対して、例えば広島の土石流の被害とか、その後もいろんな災害が起きてそれぞれ被災された人たちがいるのに、なぜ東北だけに出かけていくのか?という人がいますが、“そういう全体的な対応を一団体に求めないでください”と、僕は思うんですよね。何が言いたいかというと、“どうして、そんなふうに「すべての困っている人を助けるべき」と思ってるんだろう?”ということです。人は、というか、少なくとも僕は、自分の目の前にいる人、何かの縁があってつながった人に対して、自分ができる限りのことをやろうと思うだけです。実際のところ、人を助けることってなかなかできないんですよ。それが、僕の最近の実感です。やってない人は頭の中だけで考えるから、できるんです。

 頭の中で考えた理論は、実践がない限り、つねに正しいです。で、実際に正しいとしても、それが自分に合うかどうか、あるいは自分がその理論に合わせるにはどうすればいいかということは実際にやってみて初めてわかることなんです。だから、その正しさを自分がまっとうできるかどうかというのは、やっぱり実践があってこその話なんですよね。ただ、何かに実際に取り組むという前提で考えてみて、できないと思えば、それはやらない方がいいんだろうと思います。そこで、その自分ができないことをやる人に対する尊敬の気持ちが自然と生まれてくるはずだし、その人が気に入らないやり方をしたり受け入れ難い結果を出しているとしても、それを批判するという選択肢はなくなっていくと思うんです。

 「アイス・バケツ・チャレンジ」の広がりを話のきっかけにして、ネット・メディアとの付き合い方について書いてきましたが、基本は現実世界でのコミュニケーションと同じだと僕は思っています。もちろん、いろんなメディアやツールごとに、それぞれ特性がありますから、それはよく勉強しないといけません。そうしないと意味としては裸で表通りを歩くような事態を招きかねませんからね。自分がトラブルに巻き込まれることもあるし、相手にも迷惑をかけることになります。いわゆるリテラシーを学ぶということはおろそかにできませんが、それにしても相手とより良く意思疎通を図りたいということが前提になるのは全部同じですよね。とすれば、いつでも、自分の感じ方や考えにあまり頑なにならずに、いろんな人やいろんなことをぼんやりと受け入れてみるということが大事なんじゃないかとあらためてぼんやり思ったのでした。

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