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Vol.121 僕は僕の身の程のなかでやれることやりきりたいと思っています。

  • 2013年5月9日

 みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。

 前回は、AWSの気仙沼での取り組みが着実に成果を上げているという報告をさせてもらったわけですが、そのうれしい手応えを感じている一方で、ここのところいろんな場面で感じていたことをこのAWSの活動のなかでもあらためて感じています。それは、自分以外の人間がその人なりの価値観でやっていることを受け入れることができない、または下手な人が多くなってきているのではないかということです。その結果として、多くの人は、責任をとってくれそうな組織や他人に丸投げすることで、自分が引き起こすかもしれない不平等性を回避する、という選択をするようになってしまっていると思うんです。

 例えば、僕らが気仙沼に行っていることに一定の価値と意味があるとして、それに対して「なんで気仙沼だけ?」と言われたら「すみません」と言うしかないんですよね。つながりのあるところからやっていくしかないんだから、その意味では平等にやれるはずはないんです。でも、そういう進め方に抵抗のある人がけっこう多くて、それが僕はすごく残念だなと思うんです。僕自身、最初はそういう感覚もありましたが、ある時点で全部捨てました。そして、大事なのは具体的に向き合う人との関係に責任を持つということだと、今では思っています。AWSは、そのアカペラの活動以外にも、南三陸町のボランティアのなかで「この人がいなくなったら困る」という人を2人選んでもらって、その人に金銭的な支援をしています。それについても、ひょっとしたら南三陸町の中では「なんでアイツだけ…」と思っている人がいるかもしれません。それでも、僕の身の程、つまり僕にできることは、僕自身と握手できる距離に来た人に僕の思いを告げて、その思いとその人の思いを混ぜ合わせ、“じゃあ、どうしようか?”と考えるっていう。それしかできないなと今は思ってるんです。それが、僕の身の程だと思っているということですね。

 ただ、自分が触れている周りの社会に対して、不満というほどでないにしても、歯痒さのような感覚は感じていて、それがその身の程をまっとうする上でのある種の原動力になっているのかなという気もします。基本的に、100%自分が伝わるということはないということを受け入れた上で、「じゃあ、表現しないのか?」と言われれば、まったくそんなことはないというのが歌手としてのスタンスの僕の基本なんですけど、この取り組みに対する姿勢もそれと同じだなと思っています。

 さらに言えば、できることはあまりない、という無能感から始めるべきと僕は思っているんです。一人ひとりの力は小さくても、それを集めれば大きな力になる、みたいなことがよく言われますよね。それは事実かもしれないけれど、だからと言って“この小さな力が集まったら、なんとかなるんじゃねえ”と思って、一人で行動してもそんなのはたかが知れてるんですよ。自分には何ができて、何ができないのかということを受け入れて、ある意味では諦めた上で、それでも俺は自分にできることをやるんだよ、ということですよね。そして、「俺たちには何ができるのか?」ということを見定める。そこで、その“俺たち”をぜひ視野からはずさないでほしいんです。そのことを、僕はこの2年間ですごく感じました。つまり、自分が直接会える、話せる、触れられる人間関係のなかで、自分がどれだけ共感を得て仲間を増やしていけるか、つまりどうやって“俺”を“俺たち”にできるかということがすごく大事だということですね。

 気仙沼での活動がどういう形に落ち着くかというのは、正直に言ってまだわかりません。ただ僕としては、最初の5年で、自分なりの道筋をなんとかみつけたいなと思っているので、その締め切りまではあと3年ということになります。この3年の間、僕の人生からゴスペラーズを引き算して残ったものを、この活動に優先的に投下していこうと思っています。


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